裂け目を縱にして並んでゐる上に更に他の大岩が土と樹と草とを戴いた儘載つてゐるのです。太古の不思議な智慧と力とを持つた人類がピラミツドを築き得たその力なり方法なりで斯う言ふものを作り上げたのではないかとも思はれましたが、相川町の北のはづれに辨慶挾み岩と言ふのがありまして、まさしく石灰岩の美しい肌から石英粗面岩へうつる境めの黒い汚い岩の不規則な腐蝕のために昔高い處にあつたのが墜落して下の岩の虧けめに挾まつたのだと推測されますので、これもやはりそのたぐひだらうと思ひました。
 この祠の右の割れめからも、兩方の岩の間を體を横にして足首を一方へ曲げて廣い穴の中へ飛び込めさうです。
 この祠を二つ岩大明神と言ひ、貉を祭つてあるのだと言ふ話です。
 この二つ岩の穴の中に昔團三郎と言ふ貉が住んで居たと言ふのです。今も貉が住んでゐるさうですが、それは團三郎貉であるか、或はその子孫であるか判然しません。
 享保の初、冬になりかけの時分のことだと、安永七年に出版された「怪談もしほ草」と言ふ本に出て居ります。この本によると、相川の北のはづれの柴町と言ふ處に住んでゐた窪田松慶と言ふ外科醫になつて居ります。私の此處へ來て聞いた話ではいづれも今も子孫の殘つてゐる瀧浪と言ふ家の先祖だと言つて居ります。瀧浪家は御維新まで代代醫を業として居つて代代玄伯と言ふ名であつたさうです。何代目の玄伯であるかは訊きただして見たら分かるかも知れませんが、私にその話を聽かせてくれた人達は知りませんでした。玄伯にしても松慶にしても話は同じ筋です。
 寒い晩の夜更けに急病の迎が來た。駕籠の用意をしての迎であつた。駕籠の通つて行く途が變だつた。駕籠で着いた先は立派な兩開の門のある邸だつた。門から式臺まで四五十間もあつた。式臺には袴羽織を着たものが四五人出迎へた。主人と言ふのは七十餘の僧形の人で白の小袖に十徳を着てゐた。訊いて見るとその末子が怪我をしたのだとの事。金銀の屏風を引※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]した病室には、年の頃まだ十三四の美少年が鉢卷をして脇息に凭れて居た。怪我は刀の切尖で突いた傷だつた。血止めの藥と調合した膏藥とを置いて戻つた。
 これだけは「もしほ草」も私が耳から聽いた傳説も同じだが、「もしほ草」の方では、歸つて駕籠のものを犒はうと思つて出て見たが既に姿が見えないので、召使ひにあとを追はして主
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