推て知る可し。人の意表に出て一時の快適を好むは、未熟の事なり、戒む可し。
三三 平日道を蹈まざる人は、事に臨て狼狽し、處分の出來ぬもの也。譬へば近隣に出火有らんに、平生處分有る者は動搖せずして、取仕末も能く出來るなり。平日處分無き者は、唯狼狽して、中々取仕末どころには之無きぞ。夫れも同じにて、平生道を蹈み居る者に非れば、事に臨みて策は出來ぬもの也。予先年出陣の日、兵士に向ひ、我が備への整不整を、唯味方の目を以て見ず、敵の心に成りて一つ衝《つい》て見よ、夫れは第一の備ぞと申せしとぞ。
三四 作略《さりやく》は平日致さぬものぞ。作略を以てやりたる事は、其|迹《あと》を見れば善からざること判然にして、必ず悔い有る也。唯戰に臨みて作略無くばあるべからず。併し平日作略を用れば、戰に臨みて作略は出來ぬものぞ。孔明は平日作略を致さぬゆゑ、あの通り奇計を行はれたるぞ。予嘗て東京を引きし時、弟へ向ひ、是迄少しも作略をやりたる事有らぬゆゑ、跡は聊か濁るまじ、夫れ丈けは見れと申せしとぞ。
三五 人を籠絡《ろうらく》して陰に事を謀る者は、好し其事を成し得る共、慧眼《けいがん》より之を見れば、醜状著るしきぞ。人に推すに公平至誠を以てせよ。公平ならざれば英雄の心は決して攬《と》られぬもの也。
三六 聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事跡を見、迚《とて》も企て及ばぬと云ふ樣なる心ならば、戰に臨みて逃るより猶ほ卑怯なり。朱子も白刃を見て逃る者はどうもならぬと云はれたり。誠意を以て聖賢の書を讀み、其の處分せられたる心を身に體し心に驗する修行致さず、唯|个樣《かよう》の言|个樣《かよう》の事と云ふのみを知りたるとも、何の詮無きもの也。予今日人の論を聞くに、何程尤もに論する共、處分に心行き渡らず、唯口舌の上のみならば、少しも感ずる心之れ無し。眞に其の處分有る人を見れば、實に感じ入る也。聖賢の書を空く讀むのみならば、譬へば人の劒術を傍觀するも同じにて、少しも自分に得心出來ず。自分に得心出來ずば、萬一立ち合へと申されし時逃るより外有る間敷也。
三七 天下後世迄も信仰悦服せらるゝものは、只是一箇の眞誠《しんせい》也。古へより父の仇を討ちし人、其の麗《か》ず擧て數へ難き中に、獨り曾我の兄弟のみ、今に至りて兒童婦女子迄も知らざる者の有らざるは、衆に秀でゝ、誠の篤き故也。誠ならずして世に譽らるゝは、僥倖の譽也。誠篤ければ、縱令當時知る人無く共、後世必ず知己有るもの也。
三八 世人の唱ふる機會とは、多くは僥倖の仕當《しあ》てたるを言ふ。眞の機會は、理を盡して行ひ、勢を審かにして動くと云ふに在り。平日國天下を憂ふる誠心厚からずして、只時のはずみに乘じて成し得たる事業は、決して永續せぬものぞ。
三九 今の人、才識有れば事業は心次第に成さるゝものと思へ共、才に任せて爲す事は、危くして見て居られぬものぞ。體有りてこそ用は行はるゝなり。肥後の長岡先生の如き君子は、今は似たる人をも見ることならぬ樣になりたりとて嘆息なされ、古語を書て授けらる。
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夫天下非[#(レバ)][#レ]誠[#(ニ)]不[#レ]動[#(カ)]。非[#(レバ)][#レ]才[#(ニ)]不[#レ]治[#(ラ)]。誠之至[#(ル)]者。其動[#(ク)]也速。才之周[#(ネキ)]者。其治也廣[#(シ)]。才[#(ト)]與[#レ]誠合[#(シ)]。然[#(ル)]後事[#(ヲ)]可[#(シ)][#レ]成[#(ス)]。
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四〇 翁に從て犬を驅り兎を追ひ、山谷を跋渉《ばつせふ》して終日獵り暮らし、一田家に投宿し、浴終りて心神いと爽快に見えさせ給ひ、悠然として申されけるは、君子の心は常に斯の如くにこそ有らんと思ふなりと。
四一 身を修し己れを正して、君子の體を具ふる共、處分の出來ぬ人ならば、木偶人も同然なり。譬へば數十人の客不意に入り來んに、假令何程饗應したく思ふ共、兼て器具調度の備無ければ、唯心配するのみにて、取賄ふ可き樣有間敷ぞ。常に備あれば、幾人なり共、數に應じて賄はるゝ也。夫れ故平日の用意は肝腎《かんじん》ぞとて、古語を書て賜りき。
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文[#(ハ)]非[#(ル)][#二]鉛槧[#(ニ)][#一]也。必[#(ズ)]有[#(リ)][#二]處[#(スル)][#レ]事[#(ニ)]之才[#一]。武[#(ハ)]非[#(ル)][#二]劒楯[#(ニ)][#一]也。必[#(ズ)]有[#(リ)][#二]料[#(ル)][#レ]敵[#(ヲ)]之智[#一]。才智之所[#レ]在[#(ル)]一焉而已。[#ここから割り注]○宋、陳龍川、酌古論序文[#ここで割り注終わり]
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