下げ]
一 事に當り思慮の乏しきを憂ふること勿れ。凡思慮は平生默坐靜思の際に於てすべし。有事の時に至り、十に八九は履行《りかう》せらるゝものなり。事に當り率爾に思慮することは、譬へば臥床|夢寐《むび》の中、奇策妙案を得るが如きも、明朝起床の時に至れば、無用の妄想に類すること多し。
二 漢學を成せる者は、彌漢籍に就て道を學べし。道は天地自然の物、東西の別なし、苟も當時萬國對峙の形勢を知らんと欲せば、春秋左氏傳を熟讀し、助くるに孫子を以てすべし。當時の形勢と略ぼ大差なかるべし。
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   問答

     岸良眞二郎 問
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一 事に臨み猶豫|狐疑《こぎ》して果斷の出來ざるは、畢竟憂國之志情薄く、事の輕重時勢に暗く、且愛情に牽さるゝによるべし。眞に憂國之志相貫居候へば、決斷は依て出るものと奉[#レ]存候。如何のものに御座候哉。
二 何事も至誠を心となし候へば、仁勇知は、其中に可[#レ]有[#レ]之と奉[#レ]存候。平日別段に可[#レ]養ものに御座候哉。
三 事の勢と機會を察するには、如何着目仕可[#レ]然ものに御座候哉。
四 思設ざる事變に臨み一點動搖せざる膽力を養には、如何目的相定、何より入て可[#レ]然ものに御座候哉。
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     南洲 答
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一 猶豫狐疑は第一毒病にて、害をなす事甚多し、何ぞ憂國志情の厚薄に關からんや。義を以て事を斷ずれば、其宜にかなふべし、何ぞ狐疑を容るゝに暇あらんや。狐疑猶豫は義心の不足より發るものなり。
二 至誠の域は、先づ愼獨より手を下すべし。間居即愼獨の場所なり。小人は此處萬惡の淵藪《えんそう》なれば、放肆《はうし》柔惰の念慮起さざるを愼獨とは云ふなり。是善惡の分るゝ處なり、心を用ゆべし。古人云ふ、「主[#(トシ)][#レ]靜[#(ヲ)]立[#(ツ)][#二]人極[#(ヲ)][#一]」[#ここから割り注]○宋、周濂溪の語[#ここで割り注終わり]是其至誠の地位なり、不[#レ]愼べけんや、人極を立ざるべけんや。
三 知と能とは天然固有のものなれば、「無知之知[#(ハ)]。不[#(シテ)][#レ]慮[#(ヲ)]而知[#(リ)]。無能之能[#(ハ)]。不[#(シテ)][#レ]學[#(バ)]而能[#(クス)]」[#ここから割り注]○明、王陽明の語[#ここで割り注終わり]と、是何物ぞや、其|惟《たゞ》心之所爲にあらずや。心明なれば知又明なる處に發すべし。
四 勇は必ず養ふ處あるべし。孟子云はずや、浩然之氣を養ふと。此氣養はずんばあるべからず。
五 事の上には必ず理と勢との二つあるべし。歴史の上にては能見分つべけれ共、現事にかゝりては、甚見分けがたし。理勢は是非離れざるものなれば、能々心を用ふべし。譬へば賊ありて討つべき罪あるは、其理なればなり。規模《きぼ》術略吾胸中に定りて、是を發するとき、千仞に坐して圓石を轉ずるが如きは、其勢といふべし。事に關かるものは、理勢を知らずんばあるべからず。只勢のみを知て事を爲すものは必ず術に陷るべし。又理のみを以て爲すものは、事にゆきあたりて迫《つま》るべし。いづれ「當[#(ツテ)][#レ]理[#(ニ)]而後進[#(ミ)]。審[#(ニシテ)][#レ]勢[#(ヲ)]而後動[#(ク)]」[#ここから割り注]○陳龍川、先主論の語[#ここで割り注終わり]ものにあらずんば、理勢を知るものと云ふべからず。
六 事の上にて、機會といふべきもの二つあり。僥倖の機會あり、又設け起す機會あり。大丈夫僥倖を頼むべからず。大事に臨では是非機會は引起さずんばあるべからず。英雄のなしたる事を見るべし、設け起したる機會は、跡より見る時は僥倖のやうに見ゆ、氣を付くべき所なり。
七 變事俄に到來し、動搖せず、從容其變に應ずるものは、事の起らざる今日に定まらずんばあるべからず。變起らば、只それに應ずるのみなり。古人曰、「大丈夫胸中|灑々《しや/\》落落《らく/\》。如[#(ク)][#二]光風霽月[#(ノ)][#一]。任[#(ズ)][#二]其[#(ノ)]自然[#(ニ)][#一]。何[#(ゾ)]有[#(ラン)][#二]一毫之動心[#一]哉」[#ここから割り注]○明、王耐軒筆疇の語[#ここで割り注終わり]と、是即ち標的なり。如[#レ]此體のもの、何ぞ動搖すべきあらんや。
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   補遺

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一 誠はふかく厚からざれば、自ら支障も出來るべし、如何ぞ慈悲を以て失を取ることあるべき、決して無き筈なり。いづれ誠の受用《じゆよう》においては、見ざる所において戒愼し、聞かざる所において恐懼する所より手を下すべし。次第に其功も積て、至誠
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