えず進化發展して遂に又其天體の滅絶に至り消散し更に新天體の成立を營むことになるのである、凡そ此空間には無類の天體が終始交※[#二の字点、1−2−22]生滅長消して居るのであるから宇宙本體の變化は無始無終に行はれつつあるも本體それ自身は終始恆存して居るのであると思ふ、而して其變化が自然法即ち因果法に支配されて起る所の現象であると余は信ずるのである、果して然らば此宇宙本體が即ち實在(最も活動的の)にして此外に絶て靜的實在なるものの存すべき道理を發見することは出來ぬのであらうと考へる。
評者又曰、ところが所謂靜的實在なるものに至つては抑それが如何なるものである乎、全く其の物柄が解らぬ、實に空空寂寂補捉すべからざるものである、果して然らば此靜的實在なるものも亦所謂神と一般遂に化物《バケモノ》たらざるを得ぬことになるのである、形而上學者と余輩自然論者との宇宙觀は此の如く表裏反對であるから到底如何ともする能はぬことであると思ふ、又博士はショッペンハウエル氏は意思を以て萬物發展の淵源としたのに反してダーヰン氏の著書には意思の事を少しも論じて居らぬが意思を不問に付して生存競爭を説くことは甚だ間違つたことであると論じて居る、成程右の著書には意思の事に就て特に論じて居らぬやうである、けれども其論説を翫味して見れば有機體に動向又は意思の存して居て、それが生存競爭の誘因となるといふことは自然に解るのである、又最後の著 The descent of man にも矢張意思に就て特に章條を設けて説いてはないけれども此書の方では猶更意思の必要なことが自ら解るのである、決して動向や意思を忘れて居るとは思はれぬ、又博士が動物に眼耳抔の生じたこと及び印度の行者が手を神に捧げること等のことは全く意思の發動に原因したといふことを述べられたがそれは多少道理のあることと思はれる、それゆへ余は博士が意思を生存競爭上甚だ必要のものとするのを決して非難するのではない、けれども唯博士がショッペンハウエル氏と同樣に宇宙意思なるものを主張するのに就ては大に反對せねばならぬ、余は意思なるものを以て全く動向の進化したもので高等動物及び人間に至て始めて生じたものであるといふ理由を明かにするために右の如く論じて來たのである。
井上博士曰ウント氏も意思に就て論じてスペンサー氏やヘッケル氏の缺陷を示して居る、ウント氏の説は箇樣である、凡そ生存競爭といふことに就ては二つに分けて見ねばならぬ點がある、其第一は境遇例へば自己の屬する國土、時世、周圍の状態等であるが是れは吾々の意思で以て何とも左右することの出來ぬものである、併し是等の境遇なるものを除けば其他は全く自己の意思で生存競爭が定まる、といふので是れが即ち第二になるのであるが、是れは實に尤なる議論である、日本が清露兩國に打勝つたのも日本人の意思が豫め打勝つべき準備をして居たからである、東郷大將が敵艦を全滅せしめたのも大將に壯大なる意思があつたからである、其樣な譯で意思がなければ競爭に打勝つことは決して出來ぬ、ウント氏は殊にショッペンハウエル氏の影響を受けて右樣な説を立てたのであると思ふ、其他パウルゼン氏も矢張同樣に論じて居る、進化論には必ず意思を加へて研究せねばならぬ、左樣にすれば進化論が大に變化して來る云々。
評者曰ウント氏も井上博士も皆自由意思論者(蓋し有限的)であるところから自然右樣なる説が一致すると見える、けれども余輩自然論者は人間にも他動物同樣に身心共に自由といふことを微塵も認許することは出來ぬ、人間も他動物から進化したのである以上獨り人間のみに自由意思がある抔いふ道理のあらう筈がない、獨り人間のみには有限的意思がある抔考へるのは大なる謬見である、博士はウント氏を贊して自己の屬する國土、時世並に四圍の状况等の如き凡て自己が關係する境遇の事は吾々の自由意思で以て如何とも左右することは出來ぬけれども其他の事に至ては凡て自由に左右することが出來ると論じ吾邦の對清對露の大勝や東郷大將の露艦全滅抔の例を擧げて説て居るけれども余は甚だ其理由を解することに困む[#「困む」はママ]のである、余輩不自由意思論者は右の如く人間にも身心ともに微塵も自由はないとするのであるから意思の起るのも全く已むを得ざる動機が原因となるのに外ならぬとする、而して其已むを得ざる動機は如何に生ずる乎といふに是れは一には父祖の種々の遺傳と又一には自己が外界の状况(博士が國土、時世、周圍の状態等と言へる類なり)に應化することに依て生ずるのである、それゆへ意思が決して自由に起るものでなきのみならず其意思を産み出す動機も亦同く已むを得ざる理由から生ずるのである。
評者又曰然るに自由意思論者が意思を自由なるものと考へるのは全く選擇の自由(Wahlfreiheit)といふものがあると信ずるからのことである、物事を考て、かうしやう乎、ああしやう乎、と思ふとき、又やるがよからう乎、やめるがよからう乎と惑ふとき抔に遂に何れに歟決定するやうになると、それを自分が自由に選擇決定したのであるやうに思ふのであるけれども、是れが大なる謬見である、決して自分が自由に選擇決定したのではない、實は自分の精神内に同一時に二個若くは數個の相反對する意思が存して居て、それが先づ互に勝を占めんと競爭するのである、而して其中で強い意思が弱い意思を打負かすので、そこで意思の決定がつくのである、自分が自由に選擇決定するのではなくて意思相互の勝敗で決定が出來るのである、然るに左樣なる理由が解らぬところからして全く自分で自由に選擇決定するもののやうに思ふのであるから實に甚だしき謬見になるのである、其樣なる譯であるから日清日露の兩大戰に吾邦が大勝を得たのも東郷大將が露艦を全滅せしめたのも、それは固より其意思の壯大なるに原因するのであるけれども併し其意思は決して自由に起したのではなく必ず日本人の優勝なる遺傳と境遇應化とから生じた所の動機から出たのであるといふことを知らぬばならぬ[#「知らぬばならぬ」はママ]、尤も此意思不自由論に就ては猶十分論じたいことがあるけれども先づ是れで差措くであらう、是れで大抵は解つたことと思ふ。
井上博士曰余は猶意思に就て言はねばならぬことがある、是れは心理學に關係したことであるから心理學の方面から疑のある諸君には意見を吐露して貰いたいと思ふのである、意思論に就て一つ解り難いことがある、吾等の生命は先づ生存するといふことを第一として居る、そこで生存して行かねばならぬ、けれども生存して居るから生存の欲望があるのであるが、ところが何故に生存せねばならぬ乎といふと不明になる、何故といふことに對しては必ず不明なものが出て來る、茲に生命の問題なるものが出て來る、青年抔になると煩悶するといふやうなことも隨分ある、又食ふことも同樣である、何故食はねばならぬ乎、旨《ウマ》いから食ふと云ふであらうけれども尚一つ先きにゆくと何故|旨《ウマ》いものを食はねばならぬ乎、箇樣に段段と押してゆくと仕舞に何等歟必ず殘る、左樣に先きに先きにと押詰めてゆくとしても決して其終點に達することは出來ぬ、ところで、それには必ず何か譯があると思ふ、尚今一つ、それに關聯して居ることがあるが意思に就ては自分の勝手にならぬことがある、即ち前述の自己の境遇のことやら又は人間として自然といふものの爲めに何としても餘儀なくされる、それに就てはハルトマン氏抔は無意識哲學(〔Philosophie des Unbewus&ten〕)の中に叙述して居る、自分では左樣にせずとも、よいと思つても自然と衝動(Drang)が出てやらしてしまふ、又尚一つ自分一身で如何ともすることの出來ぬものがある、それは如何なる譯乎といふに一體意思といふものは動向から出て來る、是は心理學者も大抵左樣に言つて居るのであるが元來意思なるものは感情若くは知識とは違て大に肉體の働が加はつて居るからの譯からである、知でも情でも多少生理的變化を伴つては居るけれども決して意思が生理的關係を持て居る程ではない、意思は肉體が働かねば意思にはならぬ、唯しやうとした丈けでは未だ意思ではない、ところが動向も矢張肉體的活動を伴つて居る、決して單に心理的作用のみでない、それゆへヘルバルト氏の如きは動向は心理的作用といふよりも寧ろ生理的作用といふ方がよいと述て居る。
井上博士又曰動向は必ず筋肉の活動を伴ふて居る、のみならず必ず目的がある、けれども、それが明確でない、それが明確になれば既に意思になるのである、ところで此動向なるものは抑何である乎といふと哲學的に言へば即ち活動である、宇宙の活動である、宇宙の活動が有機體にあつては欲動(Trieb)となる、而して、それが知情の發展と伴つて遂に意思となる、一寸圖にして見れば此の如くである、即ち [#ここから横組み]活動――欲動(嚮動)――意思[#ここで横組み終わり] 箇樣になるのであるから宇宙全體の活動が動物にあつては欲動となるが植物にあつては仍ほ嚮動である、けれども高等動物から人間になつては既に意思となる、是れが順序である、盖し宇宙は一大活動力を以て變化を現して居る、其活動の法則が即ち進化律である云云。
評者曰博士は何故に生存せねばならぬ乎何故に食はねばならぬ乎といふ問題を出し、それより段段と押し詰めてゆくと遂に解らぬものが必ず殘る決して終點迄達することは出來ぬと述べられたのであるが是れは盖し所謂靜的實在の不可解を説かれたのでもあらう乎、換言すれば宇宙の大目的大意思大心靈とも云ふべき終極點を指されたのであらう乎とも考へられるのであるけれども、併し余輩自然論者は決して左樣なる問題を必要とはせぬのである、余輩自然論者は凡そ宇宙の成立から萬物の生滅長消即ち凡百の現象を以て畢竟之を自然力因果力の然らしむる所に歸するものとして毫末も宇宙の大意思大心靈を認めぬのであるから博士の提出せる大問題の如きは全く不問に付して敢て意とせぬのである、自然から生命を受たる吾々人間が此生命を務めて保持せんとするのは其本性である、けれども食はねば餓死するそれゆへ食ふのである、旨《ウマ》いものを食ふのが生命保全の上に於て愉快であるから食ふのである、併し何故|旨《ウマ》い乎何故愉快である乎といふ道理を究めんとするならば、それは盖し生理學若くは其他の自然科學の問題であつて決して哲學上の問題ではないのである、又博士の例に引かれたハルトマン氏の「無意識の哲理」論中吾々の意思に反する衝動なるものがあつて自ら爲さんとすることをさせず却て好まぬことをさせるやうになる場合があるとの論は尤なことである、是れが即ち余の前に述べた意思不自由の證據になるのである即ち博士の自由意思論とは反對になるのである、それから次に博士の述べられた活動、欲動、嚮動、意思の解釋並に其圖式の如きは大抵異論もないが併し宇宙の活動といふことに就ては博士の考とは大に異なつて居る、博士は先づ宇宙に大活動があつて、それから欲動、嚮動、意思抔が出て來るやうに見られるのであるけれども余の論では宇宙本體たるマテリーとエネルギーとの合一體の最初の活動は猶小なるもので、之れが漸次進化發展して、嚮動、欲動、意思となつて來るのである、更に約述して見れば博士の論では大活動から小活動が出るのであるけれども余の所見では小活動が次第に大活動に進化して來るといふことになるのである、併し茲に一つ笑かしいことがある、博士はショッペンハウエル氏の説を取て宇宙の意思なるものを説かれたのであるのに圖式で見ると意思なるものは高等動物や人間に至て始めて生ずるもので其以前には無いやうにも思はれる、是れは抑如何なる譯であらう乎、甚だ解し難いのである。
井上博士曰そこで右嚮動、欲動、意思抔いふものは宇宙の活動から出て來るものであつて此活動には必ず一定の方針がある、而して萬物が、それで律せられる人間も同樣である、然るに唯それのみに依て律せられ居るときには未だ個人の自我といふものがない、人間も單に自然界の一部をなして居るのみである、ところが個人の自我といふものの出來るのは唯意
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
加藤 弘之 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング