思の發達に依るのである、凡そ意思なるものは進で努力するといふことも出來れば又退て制止することも出來る、そこに始めて自我なるものが現れて來る、唯宇宙の活動に依て律せられるのみでは未だ自我はない、唯自然界の一部である、本來自然界の一部であるものが漸次知情の發達に伴つて意思が茲に發展して來たときには自分で自分を制止したり又努力して何事歟を成し遂げたり抔する、それだけの範圍に自我が出來る、それゆゑ自我は實に小なるものであるのみならず其自我が出來て居ても決して自分の思ふ通りになる譯ではない、矢張宇宙の趨勢に制せられる、そこに不可解のものがある、何故左樣なものがある乎といふことは到底個人の地位からは※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]に超絶した大問題である、但し意思と雖一層廣汎なる所から言へば宇宙の活動の制裁の範圍に入らぬことはない、矢張自然の制裁の範圍に入て來るけれども併し少し區別がある、又意思には動機が種々生じて、それが互に競爭するといふやうなこともある、尤是等の事を唯今詳述することは時間が許さぬ云々。
評者曰博士は嚮動欲動意思は必ず宇宙の活動から出て來るもので、それには又必ず一定の方針があるのであつて萬物はそれに律せられるけれども唯人間のみには、それに律せられぬ力が生じて來た、それが即ち自我なるものである云々と論ぜられたのであるが此點が余輩自然論者の最も首肯の出來ぬことである、前にも述べた如く博士はウント氏等と同く所謂有限的自由意思論者であるから左樣なることを説かれるのであるけれども人間が如何に進化したとて矢張有機體である、此後猶千萬年を經て今より千萬倍の進化を遂げ得るとして見ても猶矢張有機體の域を脱することの出來るものでない、佛教では人間も佛になり得る抔いふけれども假令佛になつたとて矢張人間である、有機體であり人間である者が未來永劫人間以上の超絶意思力を獲得すべき筈がない、但し無機體から有機體が生じた如く千萬年の後に或は人間が有機體以上のものになることがある乎も知れぬと考て見たところで、それでも矢張自然的産物であるに相違ない、果して自然的産物であれば、之れが一に自然法に依て律せられるのは固より言ふ迄もなきことである、ギェーテ氏は萬古不易の眞理を吐露した、吾々は一に萬古不易の金剛大法に支配されて吾々の生存境界を成就することに餘儀なくされて居る[#「吾々は一に萬古不易の金剛大法に支配されて吾々の生存境界を成就することに餘儀なくされて居る」に白丸傍点]と、如何なる哲理も敢て之に敵することは出來ぬと思ふ、して見れば自我抔言つたとても、之れは全く無意義のものに過ぎぬ。
評者又曰然るに古來哲學者が右の如き大謬見に陷つたといふのには必ず多少の理由が存するのである、人間は他動物の全然自然力に制せられるのと異なつて却て大に自然力を制するが如き趣がある、今日の開化に際して其最も顯著なるものを一二擧示して見れば蒸氣事業電氣事業又は近來の飛行器の計畫の如きに至ては是れは實に人間が全く自然力を制し得るものと見て毫も不都合はないやうに思はれるけれども、それは唯左樣に思はれるのみであつて決して眞に左樣であるのではない、何故乎といふに之れは人間には他動物の未だ獲得せなんだ所の大知識を獲得したために遂に自然法の如何なるもの乎を知ることが出來るようになつて、それで其自然法を自ら利用することを得るに至つたからのことである、して見ると人間が今日の如き開化に迄進で蒸氣電氣又は飛行器の如き大發明をなすに至るのも是れは決して人間が自然を制するのではなくて矢張自然に制せられて居るのである、換言すれば自然法に遵從して以て自然法を利用することを得るやうになつた迄のことである、それゆへ毫末も自然法の束縛を脱して自由に所思を遂げる抔いふことではないのである、其他凡て精神上の事に至ても全く同一樣であつて到底微塵も自由意思のあるべきものではない、果して微塵も自由意思のない以上は又微塵も自我なるもののあるべき筈はない、唯知識に於て他動物に超越しただけのことである、それゆへ矢張唯絶對的自然力の奴隷であると認めねばならぬのである。
評者又曰ところが博士も亦自我は至て小なるものであつて多くは矢張宇宙の趨勢に制せられて居ると述べて偖そこに不可解の點があるとせられるのであるが是れが博士も亦大に自然力の大なる所以を悟られてあるのである、而して其不可解の點は到底個人の地位からは※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]に超絶して居る問題とせられるのであるが、それは蓋し彼の宇宙の靜的實在なる神變不可思議的大心靈に歸せられるのであらうけれども余輩は決して左樣なことで滿足することは出來ぬ、余輩は出來得る限りは矢張科學的に研究せねばならぬことと信ずる、併し又それ歟と思ふと博士は更に一層廣汎なる所から言へば宇宙の活動の制裁の範圍に入らぬことはないとも言ひ又それとも少し區別があるとも言ひ又意思の動機が互に競爭するとも言ひ種々に言ひ囘はされる所を見ると博士の主義は頗る曖昧となつて殆ど解らぬことになるのである。
井上博士曰以上段々論じ來つたやうな譯であるから進化論に就ては必ず先づ意思といふものを必要條件として研究せねば十分でない、此意思といふものの側から行くと即ち目的的といふことになる人間も動物も植物も皆目的的に働くのである、人間の道徳の事でも凡て意思が目的的に働くので完全に達するのである、凡て目的なしの行爲といふものは狂者の外にはない、而して其目的は必ず宇宙の活動から出て來るのである、哲學では必ず左樣に論究せねばならぬ、そこが即ち哲學の必要なる所である云々。
評者曰宇宙の現象が凡て因果的機械的であるは言ふ迄もなけれども、其結果から見ると宛かも既に目的があつて出來たやうに見えるのであるといふことに就ては段々論じ來つた通りであるから最早繰返すにも及ぶまいと考へるのであるが併し高等動物及び人間に至ては意識上明かに目的がある、是れは目的と稱して不都合はない、けれども是れとても實は自個の自由なる意思で自由に目的を立てるのでは決してない、意思が必ず因果的機械的に出て來るにも拘はらず、それが意識的であるから其目指す點が明瞭になつて居る、それで、それを目的的と稱してもよいのである、けれども矢張全く因果的機械的に出て來る目的で決して吾々が自由に立て得る目的でないことは言ふ迄もないのである。
評者又曰偖是れにて批評は大略結了したと思ふのであるが之を要するに博士の意は進化論に於て最も必要條件として居るものは生存競爭といふことであるけれども生存競爭なるものは抑末の事であつて生存競爭を説くには先づ宇宙の靜的實在から宇宙の大活動又宇宙の意思の如き大本源に溯て研究せねばならぬことであるのに進化論者は左樣なることは凡て全く不問に付して居るのであるから進化論は到底哲理となるものではないといふのである、然るに余輩自然論者から見ると抑宇宙の靜的實在なるものは到底信憑すべき實證の存するものでない、又宇宙の大活動宇宙の大意思なるものも同樣全く臆測に外ならぬもので概して不可思議的神秘的超自然的|化《バケ》物的の力を想像するに過ぎぬ、然るに宇宙は決して左樣なものでない、却て絶對自然的に絶對因果的にマテリーとエネルギーとの合一體の進化發展であるから宇宙の現象は一に進化の理に依て研究するにあらざれば到底眞理に到達することは出來ぬと斷定するのである、約述すれば將來の哲學は必ず進化學的でなければならぬとするのである。
評者又曰ところが先頃來所謂千里眼なるものが透覺をなしたことに就て諸學者間にも種々の説が出て其中でも井上博士の如きは右は到底哲學若くは宗教的問題であつて自然科學抔で研究の出來るものでないと言はれたやうに聞くのである、若し果して左樣であれば博士の主張される不可思議的なる神秘的なる超自然的なる大意思大心靈若くは靜的實在の領域に入り込んで研究せねばならぬ譯であるけれども余は何分にも、それに服することが出來ぬ、尤も余とても何の考もつかぬのであるけれども右等の頗る罕れなる珍現象は或は所謂(Atavismen)(余は譯字を知らねども再現又は復現と譯してよからん)の類で人間の祖先なる動物時代に於ける視覺の復現したのであるまい乎と臆測するのであるが是れは全く臆測に止まるのであるから決して主張するのではないけれども併し兎に角此の如きことは決して人間界に就てのみ研究すべきものでなくて必ず動物界に迄研究を及ぼさねば到底解らぬことではなからう乎と考へるのであるから序ながら一寸述て置く、偖非常に長談議となつたことであるに井上博士を始め諸君の清聽を辱くしたのは余の榮譽とする所である。
[#地から1字上げ](明治四十三年十一月「哲學雜誌」第二八五號)
底本:「明治文學全集 80 明治哲學思想集」筑摩書房
1974(昭和49)年6月15日初版第1刷發行
1989(平成元)年2月20日初版第5刷發行
初出:「哲學雜誌 第二十五卷第二八五號」
1910(明治43)年11月
入力:岩澤秀紀
校正:川山隆
2008年5月20日作成
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