ーとエネルギーとのみであるといふことを知らねばならぬ。
井上博士曰スペンサー氏もヘッケル氏も其他の進化論者も凡て機械主義であるが是れは隨分面白い點もある頗る痛快でもある、此主義では神が宇宙を造つたと歟又は神が宇宙の先き先き迄を見透して人間の運命を定めると歟いふ所謂目的主義を全然破壞するのであつて、それに代へるに自然淘汰性欲淘汰なる主義を以てして生物の生存競爭に依り其勝敗が定まつて乃ち淘汰が出來るといふことを説くのであるから實に痛快である、けれども余は茲に一の疑問がある、凡て進化といふことが全然一の目的なしに絶對機械的に出來るものであらう乎如何といふに、其れは甚だ疑はしい、抑進化なるものが單純から複雜に移り無秩序から秩序に到るといふのであるとすれば此進化なるものが決して偶然の出來事でないことは明かであつて全く法則的に出來るのである、して見るとそこに自然と目的が立つて居るやうに考へられるではない乎、尤も決して神の立てたやうな目的ではないけれども必ず進化の方針が定まつて居るやうに思はれるではない乎、進化は決して亂脈ではない必ず其道筋が定まつて居るに相違ないのである云云。
評者曰一定不易の法則即ち自然法で以て起る現象が決して盲目的でない偶然的でない、自然力は必ず斯くあるべき因があつて斯くあるべき果が生ずるのであるから、それゆへ宇宙の現象は宛かも初め目的を定めて其目的通りに出來るのと同じやうに見えるには相違ない、けれども初め目的を定めるといふ一の超自然力は絶てないのである、唯宛かも、それがあるのと同じやうな結果になるといふに過ぎぬのであるから、それを目的法であるといふことは決して出來ぬ、矢張因果法とせねばならぬのである、茲に一の比喩を設けて説明して見やうならば古代にあつては地球が太陽を囘ると思つて居る、然るに天文學の開けで、それは大なる謬で反對に地球が太陽を囘るのであるといふことが解つた、けれども此の如き謬つた考も實際には餘り不都合はない、矢張太陽が地球を囘ると見て居ても、それで暦も出來れば又日月蝕も測れるのであるのであるが、學理上因果法であるものを謬て目的法と見て居ても、それは實際上餘り不都合はないのである、けれども、それを學理上から考へれば太陽が地球を囘るといふのと全く同樣なる謬見になるのである。
井上博士曰スペンサー氏は心理學原論中に超相的實在論(Transfigured Realism)なるものを擧げて其中に人間の身體を外界と内界即ち客觀と主觀との中間にあるものと看做して主觀的作用と客觀的作用とに就て巧みに説て居るが、それを見ると人間の行動に一定の目的がある如く宇宙の作用にも一定の目的のある工合が能く似て居るといふことが解る、尤も左樣なることは先づ兎も角もとしておいた所で尚言はねばならぬことがある、進化論は兎角現象界の表面のみを見るものであるから自然唯客觀的になつて内界の事を忘れる弊が多いのであるが、それではいかぬ、十分主觀的に研究するやうにすれば自然的現象が決して單に機械的でなく大に目的の存して居るものであるといふことが解らねばならぬと思ふ、そこに余は大なる疑があるのである云云。
評者曰是れは前段の批評で最早盡して居ると思ふけれども併し猶少く論ずるであらう、スペンサー氏の内界外界主觀客觀論も固より多少の道理があらう、又博士が進化論は兎角外界的客觀的研究を主として内界的主觀的研究を怠ると非難する論も多少道理がないとは言へぬ、けれども從來の哲學は殆ど全く外界客觀を怠て唯唯内界主觀をのみ旨として居るのであるから遂に實驗實證といふことを輕視し其結果殆ど荒誕無稽に陷るやうになる、所ろが進化的哲學になると專ら實驗實證に依て研究するのを旨とするから自ら外界的客觀的研究が先きにならねばならぬ、若し左樣なる手續を蹈まねば決して内界的主觀的研究に移る方法手段がないからである、是れは當然已むを得ない手續である、例へば二階三階の模樣を窺はんとするには何としても必ず梯子を登つて行かねば其模樣が委しく解るものでない、是れは實に已むを得ぬ手續である、ところが從來の哲學は決して左樣なる手續を取らず唯下座敷から二階三階を覘て見て勝手な臆測をして居るのであるが余輩自然論者は決して左樣なる危險なことはせぬ、必ず二階三階と順次に登て其實况を目撃しやうと骨折て居るのである、けれども、それは隨分骨の折れることで容易に充分なる成効を見る譯にはゆかぬのである。
評者又曰右の如く一心一向やつて居る結果として近來は漸次骨折の功が顯はれて來て大分樂になつた、けれども前途猶遼遠で容易なことでない、恐らく幾星霜を經たとても到底全く二階三階に登り切ることは出來ぬかも知れぬ、ところが從來の哲學者になると左樣な心配は少しもない、梯子を登らうと思ふやうなことには氣附かず唯平然下座敷に居て二階三階の事を全く見て來たやうに法螺吹て居るのであるから氣樂なものである、唯法螺で以つて靜的實在だと歟運動だと歟目的法だと歟言つたところで決して信用の出來べきものでない、余輩進化學者は決して左樣な形而上學的認識で以つて滿足することは出來ぬ、今日となつては最早必ず所謂生物學的認識でなければ到底用立つべきものでないと思ふ、ところが從來の哲學者は多くは左樣なことを知らずして唯一心一向内界主觀の臆測のみに骨を折て居るのであるが、それは實に夢を見て居るやうなものである、夢では實に仕樣のない話であると考へる。
井上博士曰以上論ずるやうに進化論は專ら外界の方からのみ見て居るから其餘儀なき結果として全く機械論に陷るやうになる、凡そ生存競爭は全く力次第である、強いものが勝ち弱いものが負けるといふことであるから其勝敗を神が前以て定めるのではないとするので、それは實に其通りに相違ない、が併し其競爭なるものに就ては先づ以て意思といふものに就て十分考へることが甚だ必要なる條件であると思ふ、例へば二頭の虎が一片の肉を爭ふと假想すると先づ其肉を己れに取らんとする意思が双方に生ぜねばならぬ、決して唯機械的に肉を爭ふのではない、そこで其意思の爭となるのであるが其結果は強弱に依て定まるのである、但し虎の如き動物に就て意思抔といへば少しく高すぎるけれども人間に就て言へば其點は明かである、左樣なる理由であるから生存競爭の裏面には必ず意思がなければならぬ、若しも意思がなかつたならば生存競爭の起るべき道理は決してないのである、余は以前ショッペンハウエル氏の著 Ueber dem Willen in der Natur を讀んだことがあるが其意思論は蓋し佛教や波羅門から來た者であらうと思ふ、兎に角ショッペンハウエル氏以前には萬物發展の淵源を意思に置いた學者は西洋にはなかつたのであるのに同氏は此の如く意思を以て萬物發展の本源とする論を立てた、實に眞理である、ところがダーヰン氏の著 On the Origin of Species には意思論はない、是れは必ず意思論を以て補はねばならぬ、必ず先づ意思論がなくては到底進化論は立たぬのである。
井上博士又曰く右樣な譯で意思なるものは根本的活力になるのであるのに進化論は其大切なるものを忘れて居るのである、一體吾々の眼耳抔の出來たといふのも全く意思が土臺となつたのではない乎、近頃の生物學者の考では仍ほ未だ眼耳抔の具はらぬ最下等動物は本來表皮(Oberhaut)で見もし聞きもしたのであるに、それが次第に進化發展して特別に眼耳抔の如き機關が出來るようになつたといふことであるがそれは必ず意思の働きに外ならぬことと思ふ、往昔印度の行者に始終手を差上げて居て、それを神に捧げたいと思つたところが其手が後には全く肉が落ち枯木のやうになつてしまつたといふ話があるが是れも全く強い意思の力である、其樣なる譯で意思といふものは必ず生存競爭の活力とならねばならぬものと信ぜざるを得ぬのである云云。
評者曰博士は生存競爭を説くには必ず先づ意思の事を説かねばならぬ、意思がなければ決して競爭の起るものでないと述て二頭の虎の例を引かれ且つショッペンハウエル氏の如きは其著書に意思なるものが萬物發展の根本活力となる所以を論じたがダーヰン氏の著書には意思の事は少しもない、けれども是れは必ず意思論で補はねばならぬと論ぜられたのであるが意思なるものが生存競爭を惹起する活力であるといふことは無論のことである、全く尤なる論と思ふ、但し意思といへば蓋し高等動物以下には言へぬことで其以下には仍ほ動向(Trieb oder Neigung)と稱せねばならぬと考へるのであるが偖然らば意思と動向とは如何なる相違である乎といふに植物や下等動物にあつて仍ほ無意識的に發動する者と、又人間及び其他の高等動物にあつて多少意識的に發動する者との間には、即ち意識の有無といふ相違があるからである、尤も高等動物にも人間にも意識的發動の外に又無意識發動もあるから、それは無論唯動向と稱せねばならぬのである、右樣なる譯であるから意思なるものはそれは全く動向の進化したものであつて唯特に人間及び其他の高等動物に就てのみ言ふべきものであると思ふ、然るにショッペンハウエル氏の如きは啻に萬物に就て意思を説くのみならず更に宇宙の本源(Weltgrund)を以て直に意思と認めたのである、即ち宇宙それ自身が既に大意思であると認めて居るのである、尤も其大意思は理性を具せざる大意思であるとして居るのである。
評者又曰此の如く宇宙の本源が假令理性を具せざる大意思であるにしても苟くも既に意思である以上は必ず先づ意識的目的を有して居らねばならぬことになる、前述の如く意思には必ず意識的發動がなければならぬからである、隨つて又宇宙本源が遂に超自然的神秘的大心靈的のものとなるのは當然のことである、博士がショッペンハウエル氏に就いて歎稱せられるのは最も其點にあるのであるけれども余のそれを首肯することの出來ぬのも亦其點にあるのである、又近來米國で頓に盛になつた彼のプラグマチスムスの如きは自然界と精神界とを全く同一視してエネルギーを以て直に意思と認め隨て自然界の現象をも凡て目的的に出來るものとするのであるが是れは甚だ謬つて居ると思ふ、尤も意思がエネルギーであることは無論なれども併しエネルギー即意思といふ樣に言ふことは出來ぬ、意思とはエネルギーの進化發展した部分に限るのは前述の通りである、プラグマチスムスが自然界と精神界とを別世界視せず全く同一世界であるとするのは余輩の最も是認する所であるけれども唯自然界と精神界との間に殆ど進化發展の程度を許さぬのは又余輩の取らざる所である、のみならず此學派は此點に於てショッペンハウエル氏と殆ど一致することになつて遂に宇宙の本源にも大意思なる大心靈を認めることになることになるのであるから此點は余輩の最も服する能はざる所である、但し後席に於ける井上博士の「ショッペンハウエルとジェームス」なる講演には必ず意思に就て右兩氏の一致する所以を説かれることであらうと思ふ、然るに余は宇宙を以て絶對自然的絶對因果的と認めて毫末も宇宙意思(Weltwille)なる超自然的神秘的なる意思を認許せぬからである、けれども余は余の自ら宇宙本體と認める所のマテリーとエネルギーとの合一點にも最先から既に必ず動向が存して居るものと認める、併し意思ではない、猶未だ意思に迄進化して居るものでないから是れは必ず無意識的でなければならぬ、未だ毫も意識的目的を有したものではないのである、然るに一般哲學者は兎角宇宙本體即ち實在を以て終始絶對的高遠完全にして實に言語に絶したるものとするのであるけれども余は宇宙本體を以て最も未進化未發展の状態より漸次に進化發展するもので殆ど其止まる所を知らざる程のものではなからう乎と考へるのである。
評者又曰余輩がマテリーとエネルギーとの合一體とする所の宇宙本體は全宇宙即ち諸天體に通じて皆同一にして此合一體が諸天體の成立を營むのであるから決して諸天體の上にも又其外にも存在するものではないのであるが此宇宙本體は始め天體成立の際には仍ほ頗る未進化未發展の状態であるけれども、それより絶
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