分の勝手にならぬことがある、即ち前述の自己の境遇のことやら又は人間として自然といふものの爲めに何としても餘儀なくされる、それに就てはハルトマン氏抔は無意識哲學(〔Philosophie des Unbewus&ten〕)の中に叙述して居る、自分では左樣にせずとも、よいと思つても自然と衝動(Drang)が出てやらしてしまふ、又尚一つ自分一身で如何ともすることの出來ぬものがある、それは如何なる譯乎といふに一體意思といふものは動向から出て來る、是は心理學者も大抵左樣に言つて居るのであるが元來意思なるものは感情若くは知識とは違て大に肉體の働が加はつて居るからの譯からである、知でも情でも多少生理的變化を伴つては居るけれども決して意思が生理的關係を持て居る程ではない、意思は肉體が働かねば意思にはならぬ、唯しやうとした丈けでは未だ意思ではない、ところが動向も矢張肉體的活動を伴つて居る、決して單に心理的作用のみでない、それゆへヘルバルト氏の如きは動向は心理的作用といふよりも寧ろ生理的作用といふ方がよいと述て居る。
井上博士又曰動向は必ず筋肉の活動を伴ふて居る、のみならず必ず目的がある、けれども、それが明確でない、それが明確になれば既に意思になるのである、ところで此動向なるものは抑何である乎といふと哲學的に言へば即ち活動である、宇宙の活動である、宇宙の活動が有機體にあつては欲動(Trieb)となる、而して、それが知情の發展と伴つて遂に意思となる、一寸圖にして見れば此の如くである、即ち [#ここから横組み]活動――欲動(嚮動)――意思[#ここで横組み終わり] 箇樣になるのであるから宇宙全體の活動が動物にあつては欲動となるが植物にあつては仍ほ嚮動である、けれども高等動物から人間になつては既に意思となる、是れが順序である、盖し宇宙は一大活動力を以て變化を現して居る、其活動の法則が即ち進化律である云云。
評者曰博士は何故に生存せねばならぬ乎何故に食はねばならぬ乎といふ問題を出し、それより段段と押し詰めてゆくと遂に解らぬものが必ず殘る決して終點迄達することは出來ぬと述べられたのであるが是れは盖し所謂靜的實在の不可解を説かれたのでもあらう乎、換言すれば宇宙の大目的大意思大心靈とも云ふべき終極點を指されたのであらう乎とも考へられるのであるけれども、併し余輩自然論者は決して左樣なる問題を必要
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