と信ずるからのことである、物事を考て、かうしやう乎、ああしやう乎、と思ふとき、又やるがよからう乎、やめるがよからう乎と惑ふとき抔に遂に何れに歟決定するやうになると、それを自分が自由に選擇決定したのであるやうに思ふのであるけれども、是れが大なる謬見である、決して自分が自由に選擇決定したのではない、實は自分の精神内に同一時に二個若くは數個の相反對する意思が存して居て、それが先づ互に勝を占めんと競爭するのである、而して其中で強い意思が弱い意思を打負かすので、そこで意思の決定がつくのである、自分が自由に選擇決定するのではなくて意思相互の勝敗で決定が出來るのである、然るに左樣なる理由が解らぬところからして全く自分で自由に選擇決定するもののやうに思ふのであるから實に甚だしき謬見になるのである、其樣なる譯であるから日清日露の兩大戰に吾邦が大勝を得たのも東郷大將が露艦を全滅せしめたのも、それは固より其意思の壯大なるに原因するのであるけれども併し其意思は決して自由に起したのではなく必ず日本人の優勝なる遺傳と境遇應化とから生じた所の動機から出たのであるといふことを知らぬばならぬ[#「知らぬばならぬ」はママ]、尤も此意思不自由論に就ては猶十分論じたいことがあるけれども先づ是れで差措くであらう、是れで大抵は解つたことと思ふ。
 井上博士曰余は猶意思に就て言はねばならぬことがある、是れは心理學に關係したことであるから心理學の方面から疑のある諸君には意見を吐露して貰いたいと思ふのである、意思論に就て一つ解り難いことがある、吾等の生命は先づ生存するといふことを第一として居る、そこで生存して行かねばならぬ、けれども生存して居るから生存の欲望があるのであるが、ところが何故に生存せねばならぬ乎といふと不明になる、何故といふことに對しては必ず不明なものが出て來る、茲に生命の問題なるものが出て來る、青年抔になると煩悶するといふやうなことも隨分ある、又食ふことも同樣である、何故食はねばならぬ乎、旨《ウマ》いから食ふと云ふであらうけれども尚一つ先きにゆくと何故|旨《ウマ》いものを食はねばならぬ乎、箇樣に段段と押してゆくと仕舞に何等歟必ず殘る、左樣に先きに先きにと押詰めてゆくとしても決して其終點に達することは出來ぬ、ところで、それには必ず何か譯があると思ふ、尚今一つ、それに關聯して居ることがあるが意思に就ては自
前へ 次へ
全19ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
加藤 弘之 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング