とはせぬのである、余輩自然論者は凡そ宇宙の成立から萬物の生滅長消即ち凡百の現象を以て畢竟之を自然力因果力の然らしむる所に歸するものとして毫末も宇宙の大意思大心靈を認めぬのであるから博士の提出せる大問題の如きは全く不問に付して敢て意とせぬのである、自然から生命を受たる吾々人間が此生命を務めて保持せんとするのは其本性である、けれども食はねば餓死するそれゆへ食ふのである、旨《ウマ》いものを食ふのが生命保全の上に於て愉快であるから食ふのである、併し何故|旨《ウマ》い乎何故愉快である乎といふ道理を究めんとするならば、それは盖し生理學若くは其他の自然科學の問題であつて決して哲學上の問題ではないのである、又博士の例に引かれたハルトマン氏の「無意識の哲理」論中吾々の意思に反する衝動なるものがあつて自ら爲さんとすることをさせず却て好まぬことをさせるやうになる場合があるとの論は尤なことである、是れが即ち余の前に述べた意思不自由の證據になるのである即ち博士の自由意思論とは反對になるのである、それから次に博士の述べられた活動、欲動、嚮動、意思の解釋並に其圖式の如きは大抵異論もないが併し宇宙の活動といふことに就ては博士の考とは大に異なつて居る、博士は先づ宇宙に大活動があつて、それから欲動、嚮動、意思抔が出て來るやうに見られるのであるけれども余の論では宇宙本體たるマテリーとエネルギーとの合一體の最初の活動は猶小なるもので、之れが漸次進化發展して、嚮動、欲動、意思となつて來るのである、更に約述して見れば博士の論では大活動から小活動が出るのであるけれども余の所見では小活動が次第に大活動に進化して來るといふことになるのである、併し茲に一つ笑かしいことがある、博士はショッペンハウエル氏の説を取て宇宙の意思なるものを説かれたのであるのに圖式で見ると意思なるものは高等動物や人間に至て始めて生ずるもので其以前には無いやうにも思はれる、是れは抑如何なる譯であらう乎、甚だ解し難いのである。
井上博士曰そこで右嚮動、欲動、意思抔いふものは宇宙の活動から出て來るものであつて此活動には必ず一定の方針がある、而して萬物が、それで律せられる人間も同樣である、然るに唯それのみに依て律せられ居るときには未だ個人の自我といふものがない、人間も單に自然界の一部をなして居るのみである、ところが個人の自我といふものの出來るのは唯意
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