に居て二階三階の事を全く見て來たやうに法螺吹て居るのであるから氣樂なものである、唯法螺で以つて靜的實在だと歟運動だと歟目的法だと歟言つたところで決して信用の出來べきものでない、余輩進化學者は決して左樣な形而上學的認識で以つて滿足することは出來ぬ、今日となつては最早必ず所謂生物學的認識でなければ到底用立つべきものでないと思ふ、ところが從來の哲學者は多くは左樣なことを知らずして唯一心一向内界主觀の臆測のみに骨を折て居るのであるが、それは實に夢を見て居るやうなものである、夢では實に仕樣のない話であると考へる。
 井上博士曰以上論ずるやうに進化論は專ら外界の方からのみ見て居るから其餘儀なき結果として全く機械論に陷るやうになる、凡そ生存競爭は全く力次第である、強いものが勝ち弱いものが負けるといふことであるから其勝敗を神が前以て定めるのではないとするので、それは實に其通りに相違ない、が併し其競爭なるものに就ては先づ以て意思といふものに就て十分考へることが甚だ必要なる條件であると思ふ、例へば二頭の虎が一片の肉を爭ふと假想すると先づ其肉を己れに取らんとする意思が双方に生ぜねばならぬ、決して唯機械的に肉を爭ふのではない、そこで其意思の爭となるのであるが其結果は強弱に依て定まるのである、但し虎の如き動物に就て意思抔といへば少しく高すぎるけれども人間に就て言へば其點は明かである、左樣なる理由であるから生存競爭の裏面には必ず意思がなければならぬ、若しも意思がなかつたならば生存競爭の起るべき道理は決してないのである、余は以前ショッペンハウエル氏の著 Ueber dem Willen in der Natur を讀んだことがあるが其意思論は蓋し佛教や波羅門から來た者であらうと思ふ、兎に角ショッペンハウエル氏以前には萬物發展の淵源を意思に置いた學者は西洋にはなかつたのであるのに同氏は此の如く意思を以て萬物發展の本源とする論を立てた、實に眞理である、ところがダーヰン氏の著 On the Origin of Species には意思論はない、是れは必ず意思論を以て補はねばならぬ、必ず先づ意思論がなくては到底進化論は立たぬのである。
 井上博士又曰く右樣な譯で意思なるものは根本的活力になるのであるのに進化論は其大切なるものを忘れて居るのである、一體吾々の眼耳抔の出來たといふのも全く意思が土臺となつたの
前へ 次へ
全19ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
加藤 弘之 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング