ured Realism)なるものを擧げて其中に人間の身體を外界と内界即ち客觀と主觀との中間にあるものと看做して主觀的作用と客觀的作用とに就て巧みに説て居るが、それを見ると人間の行動に一定の目的がある如く宇宙の作用にも一定の目的のある工合が能く似て居るといふことが解る、尤も左樣なることは先づ兎も角もとしておいた所で尚言はねばならぬことがある、進化論は兎角現象界の表面のみを見るものであるから自然唯客觀的になつて内界の事を忘れる弊が多いのであるが、それではいかぬ、十分主觀的に研究するやうにすれば自然的現象が決して單に機械的でなく大に目的の存して居るものであるといふことが解らねばならぬと思ふ、そこに余は大なる疑があるのである云云。
 評者曰是れは前段の批評で最早盡して居ると思ふけれども併し猶少く論ずるであらう、スペンサー氏の内界外界主觀客觀論も固より多少の道理があらう、又博士が進化論は兎角外界的客觀的研究を主として内界的主觀的研究を怠ると非難する論も多少道理がないとは言へぬ、けれども從來の哲學は殆ど全く外界客觀を怠て唯唯内界主觀をのみ旨として居るのであるから遂に實驗實證といふことを輕視し其結果殆ど荒誕無稽に陷るやうになる、所ろが進化的哲學になると專ら實驗實證に依て研究するのを旨とするから自ら外界的客觀的研究が先きにならねばならぬ、若し左樣なる手續を蹈まねば決して内界的主觀的研究に移る方法手段がないからである、是れは當然已むを得ない手續である、例へば二階三階の模樣を窺はんとするには何としても必ず梯子を登つて行かねば其模樣が委しく解るものでない、是れは實に已むを得ぬ手續である、ところが從來の哲學は決して左樣なる手續を取らず唯下座敷から二階三階を覘て見て勝手な臆測をして居るのであるが余輩自然論者は決して左樣なる危險なことはせぬ、必ず二階三階と順次に登て其實况を目撃しやうと骨折て居るのである、けれども、それは隨分骨の折れることで容易に充分なる成効を見る譯にはゆかぬのである。
 評者又曰右の如く一心一向やつて居る結果として近來は漸次骨折の功が顯はれて來て大分樂になつた、けれども前途猶遼遠で容易なことでない、恐らく幾星霜を經たとても到底全く二階三階に登り切ることは出來ぬかも知れぬ、ところが從來の哲學者になると左樣な心配は少しもない、梯子を登らうと思ふやうなことには氣附かず唯平然下座敷
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