旅客機事件
大庭武年

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)驟雨《しゅうう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一寸|眸《ひとみ》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]
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        1

 ――E・S微風、驟雨《しゅうう》模様の薄曇。
「乗客は幾人だね?」
 煙草を銜え、飛行服のバンドを緊《し》め直し乍ら、池内《いけうち》操縦士が、折から発動機《エンジン》の点検を了《お》えて事務所に帰って来た、三枝《さえぐさ》機関士に訊ねた。
「二名だよ」
 外では、ブルンブルンBr……と、湖水の水のように、ひんやり静まり清まった緻密な空気を劈《つんざ》いて、四百五十馬力のブリストルジュピタア発動機が、百雷のような唸りをたてている。――矢張り定期航空は、各エア・ポオトで欠航の無い事を誇りにしている為、大抵の天候なら出発するのだが、然し一日中に一ぺんは空を飛ばなくっちゃ夜ねむられないと言うエア・メンも、乗客の有るのと無いのとでは――殊に天候の思わしくない時なぞ、気持の上の重圧感が、可成り違うものなのだ。
「――二人ね。什麼《どんな》人達だい?」
 けれどそう尋ねて、池内操縦士は一寸|眸《ひとみ》を瞠った。何気なく眺めた壁鏡の中の相手の顔は、ひどく血の気の引いた、昂奮し切ったものだったからだ。が、三枝機関士は、向う向きに飛行帽を冠り乍ら、無理に落ちついた風で応えた。
「一人は生糸商人だとかだが、も一人は……」そこで明らかに躊躇した後「……何でも銀行家だとか言う事だ」
 助手の操作する発動機の響が、三枝の語尾の顫えをかき消した。池内は、銜えた煙草の最後のけむりを、大きく肺に吸い込むと、
「そうかい、今日も不漁《しけ》なんだね」
 とさりげない冗談を言って、
「――じゃ一寸行って来るとしようか」
 と簡単に事務所の扉を後にした。が、丁度彼が、飛行場の緑草を、機翼をビリビリ逸《はや》りたつように顫わせている、フォッカアユニバアサル機の方に歩いて行く途中頃で、まもなく後から追いついて来たらしい三枝に、名を呼ばれた。池内は振り返って足を止めると、三枝は日頃にない落ちつかない声で、
「あのね、今日は飛行中一寸頼んで置き度い事があるんだがな」と言った。
「何だい?」
「実は」と変にまぶしげに同僚の顔を眺めた三枝は「H飛行場に着く迄、じっと航空路の各地点の現様に気をつけていて欲しいんだ」
「何だい――」池内は不審気に「其麼《そんな》事、君がちゃアんと見ていればいいじゃないか?」
「うん、だが――」
 三枝はもろくも狼狽して、顔をあらぬ方へ逸らしたが、すぐ気持を盛りかえすように、
「兎に角、僕も気をつけている事にするから君も頼むよ。是非、どうか……」
 と言い捨てると、その儘駈足で機の方へ走って行って了った。
「あいつ余程今日はどうかしている」――池内操縦士は、その後姿を眺めてそう思ったが、彼の態度が何を意味しているか、勿論わかりはしなかった。
 軈《やが》て出発、発動機は好調。池内、三枝、二名の機員に、操縦桿を握られたアメリカ・アトランテック社製の美しい旅客機は、その長細い胴体に二人の乗客――一人は商人風な小柄な男、一人はでっぷり肥った重役型の美髯家《びぜんか》を、収容して、するすると飛行場の緑草の上を滑走し始めた。
「行ってらっしゃアい!」
 見送りに出た飛行場員達が後で手を振る。エンジン・レバアをじりじりと引いて、頃を見計って全開だ。轟と凄まじい音と共に機体がスイと空に吸い上げられて、今迄太い細い線模様を描いていた地面が、忽ち野や山や人家が箱庭のように、小さく瞭《はっき》り見える迄に収縮して了う。もう五百|米《メートル》の高空なのだ。
 J部落、T河、O山、B湾――必要上自分達だけで作っている地上標識が、三分乃至五分おき位に、眼界に現れて眼界から消え去る。慣れた道だ、天候は良くないが、先ず今日は心配気はない空の旅。
「便所に行ってくるよ」
[#旅客機内の模様の説明図(fig47767_01.png)入る]
 三十分程経った所で、沈黙に終始していた三枝が、急に腰をもたげ乍ら、池内の耳元で大きく言って、自分の座席を跼み乍らはねのけた(大抵の人は知っていると思うが、旅客機内の模様は上掲の如きものである。尚、念の為めに附記すれば、Aの座席に重役風の紳士が、Bの座席に商人風の男が坐っていたのである)。そして、窮屈な扉から客室の方へもぐり降りて行った。
 山、河、谷、原……それから十分はたっぷりかかったろう。三枝は池内が二度時計を出して眺めている所へ、帰って
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