来た。と池内は何かしら胸を押えられる気重な気分を三枝の持つ雰囲気から受けた。
「変だなあ、こいつ――」
 丁度その時、前方から飛翔して来たP民間飛行場のアブロ練習機が、見事なインメルマン・ターンをして、ピタリと旅客機の左肩に機首を並べた。
「よう!」
「よう!」
 両方から手を振って愉快な交驩《こうかん》をしたが、次の瞬間には練習機はじゃれつくように急昇騰して、旅客機の背中をすれすれに飛ぶと、すいと失速旋回《ストーリング・ターン》をして、見る間に百米も後方に、吹き飛ばされたように流れ去って行った。
「やっと半分来た」池内操縦士は操縦桿を握り乍ら思った。練習機の飛ぶあたり、DとHの両飛行場を結ぶ空路の、中途に当るのだった。
 それから後の三十数分間は、池内操縦士は不思議な相棒の、昂奮した、色蒼ざめた、変に落ちつかない、顔色や態度に悩まされ続けて飛んだ。極端に鋭敏なエア・マンの精神作用は、発動機や機体や天候に就てと同しように、お互同士の肉体上の事迄、感じさせるものだった。
「一体、三枝の今日の態度は何とした事であろう。美しい、そしてたいへん良家の令嬢を恋女房とする事の出来る日の近づいていた彼にとっては、来る日来る日が幸福で、朗かそのもののようであったではないか! それが今朝に限って……」
 くりかえし其麼《そんな》事を考えているうちに、やっと目的のH飛行場の白円が、薄く下を流れる雲の間から見え出した。エンジン・スイッチを切って得意な滑空。と、地面がずんずんふくれるように盛り上って来て、……愈《やが》てずしんと車輪が大地にバウンドした。
「さあ一先ず降りて休もう」
 ピタリと機体を停止さすと、池内操縦士は腰のバンドを解き乍ら、急に痩せたようにさえ見える、陰翳の濃く漂った三枝の横顔に言った。と、その時だった。客室へ出る小さな扉が、邪慳《じゃけん》に外から打ち開かれて、そこから、ここの飛行場旅客係の男の、呶鳴るような声が飛び込んで来た。
「た、大変だ、秀岡《ひでおか》氏が死んでいるじゃないか! そして、そして綿井《わたい》氏が行方不明だ!」

        2

 ×市、生糸問屋、綿井|茂一《しげいち》、四〇歳、H飛行場迄
 ×市、R銀行頭取、秀岡|清五郎《せいごろう》、六三歳、K飛行場(Hの次のエア・ポオト)迄
 ――出発飛行場Dの、乗客名簿には、その朝の乗客二名に就ては、以上のように記録されてあったのだ。その二人がまア何と言う事だ、一人はHへ来る途中の高空で紛失して了うし、一人は前額部をひどく打ち砕かれて、鮮血にまみれて死んでいたのだ。
 池内、三枝、両機員はその場からH市警察署に拘引されて取調べられた。事件に就ては全然知る所がないと言った池内に対して、署長はひどく怒った声で言った。
「では君達は飛行中一度も客室には顔を出さなかったと言うのか? 君達の席から全く離れはしなかったと言うのか?」
「不幸にして私は客室を覗く機会を持たなかったのです。私はかえってそれを遺憾に思っている位です」
 池内操縦士は、同僚を庇《かば》うように昂然と言った。が、三枝はすっかり顔色を失って峻烈そのもののような署長の前に、
「いや、私だけは一度飛行中客室へ降りました」と告白せざるを得なかった。
「何の為めに――?」
 訊問官は追撃した。
「便所に行ったのです」
 三枝は顫えた。
「ふん」署長は冷笑した。「では君は、君が犯人でないと言う証拠を提出しない限り当面の容疑者たらざるを得ない。又池内君は、完全なるアリバイがない限り、又被疑者たるを※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]《のが》れないだろう」
「アリバイ?」
 池内は愕然とした。
「そうだ、アリバイだ。先ず考えて見給え。事件は空の上で行われた。そしてそこには数百万の人間の中から選ばれた四人しかいなかったのだ。絶対に――。そして誰れも機上の情況を見ていた者はなかったのだ」
「でも私は神に誓って座席から一寸も離れはしなかったのです」
 池内は狼狽した。
「神? だが我々は神にその真偽を糺《ただ》す方法は持たない。兎に角、一人の男は機上から姿を消し、一人の男は惨殺されているのだ」
 そして署長は一枚の紙片を改めて取り上げて読み下した。

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  屍体検案書
姓名  秀岡清五郎
記事  旅客機JXAC客席No.[#「No.」は縦中横]3上に於て、航空中死亡す。屍体を検案するに、致命傷は前額部の一創にして、約拳大に亙《わた》って、頭蓋骨粉砕し、脳漿《のうしょう》露出す。他殺と確定。兇器は重き鈍器にして、被害者の不意を見すまし、激しき勢を以て一撃のもとに行われしものと思惟さる。被害者即死。
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「何と言っても、秀岡氏は他殺されているのだ。被害状態から観
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