て自殺説は全然成り立たない以上、此の事件には必らず犯人がいなければならないのだし、その容疑者としては君達二人、そして機上から姿を消した綿井氏の以外にはあり得ないのだ」
 アリバイ! アリバイ!――池内の頭は混乱した。一体あの狭い空の上の機内で、如何なるアリバイが成立しようと言うのだ! が、その時突然に、天の啓示のように、池内の頭に閃いた素晴らしい考えがあった。
「署長! 私には立派なアリバイがあります。私はD飛行場を発してH飛行場に到着する迄、あらゆる沿線の模様に注意を払って来ました。何時何分頃には何処を通過し、そこは如何なる様子を呈していたか、瞭り申し立てる事が出来ます。これは一分でも座席から離れていたのでは不可能な事です。私は絵巻物をくり拡げるように一分間分のブランクもないように、沿線各地点の模様を述べましょう。そして私は、それを一々各地に問い合わせて、供述の真実であった事を立証させて頂けたら倖《さいわい》だと思います」
 係官一同は、池内の立場として、そうした要求をする事を不当だとは認めなかった。池内は別室で細々と、航路から見た下界の模様を逐一よどみなく申し立てた。幸い当日は曇天だったので、機は五百米下二百米の間を飛んでいた為、地上の様子は、河に糸を垂れている人の着物の色迄、瞭り説明する事が出来た。そして作製された一篇の記録は、即時各方面にその真偽を確めるべく電報乃至電話された。
 そうしている間に、H署には、次のような情報が蒐集《しゅうしゅう》され、又、細密な物的証拠品が発見されてきていた。そしてそれは、事件を大きく「|絞り開け《アイリス・アウト》」すると重要な材料となっていた。即ち第一に、機体内を綿密に精査して帰った係官は、総てを綜合して、先ず次の如く報告した。
「――機体内に兇器とおぼしき物遺留されず。又被害者の所持品中の折鞄は開放されて打ち捨ててあり、在中品は二三の書類を残して全部抜き去られ所在不明。尚便所内、窓は開放せられ、そこに取りかたづけられてありし座褥型落下傘《ざじょくがたパラシュート》一個紛失」そして最後に最も重大な証拠品たるべき一枚のもみくちゃになった紙片――客室内装備の通話用の紙片――が発見された事がつけ加えてあった。即ちそれには被害者自身の手で、次の如く走り書きされてあったのである。「三枝と言う此の機の機関士が、私を殺すと脅迫している。あなたは同乗のよしみで、私を守って下さい。お礼はしますから」
 次に集った情報とはどんなものであったろう。即ち、
 一、綿井茂一の屍体、N原の一隅に発見さる。飛行機より墜死したもの。附近に未開の儘の落下傘発見。屍体には所持品(自分の持物以外)全然無し。近傍の農夫発見して届け出《い》ず。
 一、墜死者綿井茂一は、D飛行場出発前、飛行場員に託し、一封の手紙を投函せんとした。場員は受取った儘おいたが、事件報知と共に、警察官立会の上開封した。それはA市にある家庭に宛てたもので、商売上の失敗から厭世《えんせい》自殺をする旨の遺書で、その自殺の方法として、飛行機から飛び降りる事を択《えら》んだとしたためられてあった。これはD飛行場からの長距離電話。
 一、被害者秀岡氏は、取調べの結果、商業上の要務で、現金五万円余を携帯し、至急K市に向う途中であった。(同上電話)

        3

 訊問官は、今は三枝機関士を、正当な兇行者と疑わざるを得ない事になった。
「君は、秀岡氏を殺すと脅迫したろう?」
 三枝は、それがどうして分ったろう、と言うように顔色を変えた。
「…………」
「君と秀岡氏とは如何なる関係にあるのか?」
「謂《いわ》ば敵同士でしょうか――」三枝は観念したように小さく答えた。
「私の一家と、秀岡とは姻戚関係にあるのですが、それにも不拘《かかわらず》私の一家は秀岡の悪辣な手にかかって破産せられ、非常にみじめな目に陥入れられたのです」
「秀岡氏と君との間に今朝以来行われたいきさつを話し給え。勿論、飛行中君が便所に行ったとは嘘で、秀岡氏と面談する為めに行ったのだろう」
「…………」三枝は暫く黙然としていたが、あきらめたように口を開くと「或いはそうかも知れません」と悄然と言って、「然し、その嘘は事件が紛糾するのを怖れて口にした迄のものです。何故となれば、私のした事と今度の事とは全く無関係な筈なんですから。実は今朝D飛行場で顔を合わす迄、私は秀岡が乗客になっているとは知らなかったのです。私は秀岡の顔を見ると赫《かっ》となりました。胸の中が沸《たぎ》るような昂奮に襲われて了ったのです。秀岡も駭《おど》ろいていたようです。で、私はさきにも言いましたように、秀岡に対しては非常な怨みを持っていましたし、又困窮している私共一家の為めに、法律上は兎も角、経済的に相当な事をしてもらえる立場
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