すいたお方が日にやける
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 というのがあった。
 水死した橘之助がよく歌ったが、こんな唄にも、江戸っ子と木更津っ子との、かりそめでない交遊のほどが感じられる。
 いや、圓遊の話が飛んだところへ外れてしまった。

 まだまだ、圓遊には、愉快な逸話がいろいろあるけれど、それらは、あまり、書いてしまうと小説の方の材料にさしつかえるので、勝手ながら芸惜しみをさせてもらう。
 圓遊の速記を見ると、異人館、ヒンヘット、馬駆(競馬)、奈良の水害、自転車競争、権妻二等親、甘泉、リキュール、フラン毛布、西洋料理と、明治開化の種々相が、皮相ではあるが、南京玉をちりばめたように、惜しげもなく、随所に満ちあふれ、ふりこぼれている、あたかも黙阿弥のざんぎりものの、仕出しのセリフを見るように――。今にして圓遊は、清親描くの貼り交ぜ屏風であったのだと考えられる。
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    先代市馬

 庭の無花果《いちじく》の葉を、朝に晩に採っては、煎じて、飲んでいる。
 宿痾《しゅくあ》の痔疾には無花果の葉が、何よりよいとて、先代柳亭市馬が、かねがねこれを採り用いていたと、噺家たちから聞かされていたからだ。
 そのためだろう、薄黄色い、この煎薬の一番無気味な――ともいえぬことのないほろにがさを噛みしめるたび自分は、きっとあの「のざらし」の巧かった市馬を思う。
 顎を突き出して、いつもブツブツ高座で愚痴を言っていたような調子の市馬を思う。
 大向のない、世を拗《す》ねた、しわがれ声で「あら推量!」をよくうたった市馬を思う。牡丹餅の市馬といわれた先々代は三遊亭だったと聞く。それがたまたまこの老いのわが贔屓《ひいき》役者の代になって市馬の名前は柳派へと移籍したのだ。
「ざんぎり地蔵」「へっつい幽霊」「のざらし」「石返し」、さては「猫の災難」と、奇妙に、ひねくれていて巧緻《こうち》なりし市馬。
「バケツの底を拳骨で叩いて、底がすっかり奥の方へめりこんじゃったら、ひっくり返して[#「ひっくり返して」に傍点]用いねえな」と、憎いほどおつ[#「おつ」に傍点]なことを何の苦もなく言ったりした市馬。
 市馬は木村荘八画伯もずいぶんほめていられたが、「石返し」の二度めにそばやの行燈に書き換えたのをうっかり忘れた与太郎が泣き声で「お汁粉ゥ」と言い、「しるこじゃねえや」と伯父貴に剣の峰を食わされるあたりなど――そう言ってもいい味だった。
 市馬。今は亡き市馬。
 無花果の葉を、煎じて飲むと、自分はひとり市馬を思う。
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    柳桜のまくら

 その歳晩、私の住んでいた小田原の家の南の窓からは足柄、二子が遠く見え、庭先には、冬をも青々とした竜胆《りんどう》があり、千日菊があり、千日菊にはまん丸い白い花が咲いていた……。
 さてその時の日記の一節には左のようなことがしたためられている。
「金柑の実も、移り住んだ時には真っ青だったのが、しばらく、仄かな黄色に熟れてきた。
 ここのうち[#「うち」に傍点]には、だが、ふつうの竹ばかりで孟宗がないのが憾《うら》みだから、早く、植えたいと思う。
 南天も、今あるような短いのばかりでなく、たわわ[#「たわわ」に傍点]のがほしい。
 山茶花《さざんか》や椿も好きなひとつだ。
 名人春錦亭柳桜の速記によれば、『千利休』のおしえとして、
『樫づんど 若木の柘《つげ》に黐《もち》の森 雪隠椿、門に柚の木』
 また、
『客主人ひかえのあとに集め石 ゴロタ履ぬぎ 鞍馬 つくばい』
 とあるそうだが、石の方まではとても私くらいの年齢ではわからないし、事実今はまだ識りたくもないとして、なるほど「門に柚の木」ぐらいはこの上植えておいてもいいような気がする。
 つい、このあいだまでは華やかな暮春の果樹園のみをこよなく愛した自分だが、この頃は、いっそ、夜降る雪に美しい樹々が、心から慕われる。
 それほど、人並みの苦患《くげん》を少しでも経てきた自分でではあるためだろうか。
 とまれ、小田原の春を待つ日はしずかである」
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    馬楽地蔵

「伊藤痴遊大人『講談落語界』編集の砌《みぎり》といわば、大正四、五年頃なるらんか。
 姫野里人といえる人、先々代蝶花楼馬楽が、谷中浄名院なる馬楽地蔵に詣ずるの記を書きしにさそわれ、まだ十二、三の少年たりし己れも、初めて浄名院に詣でたりけり。
 里人が戯文にありし「地蔵尊顔へ烏が糞をひり」の柳句、いかさま当時は鉛筆にて地蔵尊の尊体に記されてはありぬ。
 近時、ふと思うことありて、欠かさず月詣ではじめしも、地蔵尊には
『大正三年一月十六日 釈浄證信士』
 とあり、左楽(現)、燕枝、志ん生、柳枝、つばめ、馬生、小勝、今輔、小せん、文楽(いずれも先代、先々代)の名を線香立て、花立てに刻し、別に三代目小さん、建之云々とありけり。
 さるにても姫野里人とは誰が戯名にや? 春秋二十歳、ついに吾人が記憶より去らねどもわからず」
 この小文をしたためて、もう八年の歳月が経つ。今春だったろうか、たまたま得たそのかみの暴露雑誌「うきよ」(大正三年四月号)には、折がら馬楽の死について葭水四幸という人のこんな記事が載せられているから引いてみよう。
「死ねば深切な人ができると緑雨は言った、死なぬ中に深切な人をたくさん持った馬楽はホンマに幸福な男だ、極楽往生だと言える」
 たったこれだけなのであるが、いかに生前、馬楽の礼讃者の多かったかがわかるではないか。岡鬼太郎氏は早くに馬楽の才に傾倒していたよしであるが、もうこの時代には吉井勇先生が、久保田万太郎、岡村|柿紅《しこう》両氏が馬楽礼讃の、短歌を、随筆を、それぞれ発表しておられ、蝶花楼馬楽の名声はよほど社会的のものだったことがうなずかれる。
 なるほどなるほど、狂馬楽の最後は、必ずしも不幸だったとばかりは言えないかもしれない。
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    小文枝の「三十石」

 今は空しき桂小文枝、「ひやかし」と「三十石」のみ得意として、関西落語の中堅なりしも、その芸風は淡々と手堅く、あてこみのなき高座なりけり。

 小文枝没して数年の今日この頃、その得意とせる「三十石」レコードを聞けば、冒頭、船頭のぼやきわめける一節に曰く、
「この頃は岡蒸気にばかり、我も我もと乗りゃあがってこつとら[#「こつとら」に傍点]は風呂屋の煙突を見たかてむかつくのや。ケム[#「ケム」に傍点]の出たるもの見たら、ムカムカムカムカしてかなわんがな」云々。

 ――これ小文枝の独創なるや、前代名人の創作なるや、元より知らねど、明治初年の三十石風景、まざまざ見えて歴史の匂いいと愉しからずや。
 亡小文枝を、何かにつけてこの頃せつに回想する所以のものかくのごとし。
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    「らくだ」

 かつて私は「らくだ」について、左の一文をしたためたことがある。
「三代目小さんが『らくだ』は、京師の名人桂文吾写しのきわめつけなりしが、実体なる紙屑屋のしだいに杯一杯と酔い募りゆくあたり、思い出すだに至宝なりけり。
『うちへ帰れば餓鬼が四人もありやして、ヘイ……毎朝、飯《めし》ン時なんぞは飯粒だらけの中でおまんまを食べるんで』
 と、いまだ酔わざる以前の紙屑屋が述懐には市井落魄の生活苦滲みていみじく、後段、落合の火葬場へらくだの死骸を運ぶくだりにては、
『田圃だと思えば畑、畑だと思うと田圃という、いやな道だ。すると、そこに土橋がある……』
 に、江戸末年の高田、落合風景|泛《うか》びて、まことにこの描写、凡手ならずと今に嘆称するのところなり。たまたま花袋がこのあたりの描写にもほぼ同様の一文ありけれ。
 耳癈《みみし》いて狂死せる朝寝房むらく[#「むらく」に傍点]も、酔いどれの噺は一種いいがたきおかし味あり、ことにはかの折々『ふあーッ』と絶叫せる奇声妙音、また大正末年の寄席風物詩に一異彩たりしが、このむらく[#「むらく」に傍点]も『らくだ』は得意の演題にて、この人のはむしろ後段におもしろき箇所、数多《あまた》ありたり。
 まず、らくだの死骸を背負いし紙屑屋、高田辺りの質屋を叩き起こして、この死骸を質入れさせよ、しからずんば某《なにがし》かよこせよといたぶるの一齣《ひとこま》あり。
 また、らくだの死骸を街上へ振り落とすに、三代目小さんの手口は、彼ら両名大トラのため、いつとはなしに落としてしまうものなりしかどむらく[#「むらく」に傍点]はしからず。
 首尾よく質屋で小銭を借りたる両名、打ち喜びてまたもやパイ一傾け、いっそ吉原へでもくりこむ気で景気をつけようぜと、ちゃちゃちゃんちゃんら、ちゃらちゃらちゃんなぞ、三下りさわぎの口三味線もおかしく、とど、両名大はしゃぎにはしゃぎだして、焼場の板戸へ突きあたるまでめったやたらに駆け出すため、ここに当然の結果として、らくだの屍骸を振り落とすなり。
 さればらくだと思いて拾いたる願人《がんにん》坊主が、やがて、かつがれながら後棒のらくだの兄弟分と何やら話すを聞きとがめ、先棒の紙屑屋、振り返りて、
『喧嘩するなイ』
 とたしなめるなぞ、三代目にはなき型にて、むらく[#「むらく」に傍点]創案にや、前人の踏襲にや、とまれ、自然なる錯覚ぶりが、げにや無類の諧謔《かいぎゃく》なりけり。
『火屋《ひや》でもいいからもう一杯』のサゲの前、炎々たる火焔にのた打ち廻る願人坊主を、それ、物の怪が憑きにけるぞとて、棒押っ取りて打ち叩く火夫の姿は、いと物凄きかぎりにて、やや、もって廻れるの非難はあらんも、これまたむらく[#「むらく」に傍点]独特の場面なりしと今にして思ほゆ。
 ――先代桂春團治が『らくだ』は、一度、紅梅亭の客薄き夏の夜に聴きたるのみなりしが、あの人独自の、おかしくもたあいなき口吻《こうふん》、天下の珍にて、
『へへ、へえ、ほ、ほたら、やら、やらさせて、もらいま……』
 と、あわてふためいてはいでてゆく屑買いの物腰に、我ら、噴飯爆笑を重ねぬ。
 ――他に上方にては桂圓枝、この噺を十八番となす。紙屑屋の次第次第に酒の廻りて、果てはならずもの[#「ならずもの」に傍点]にくってかかる時、顔面蒼白に見えし「芸」の力、今に忘れず。当代松鶴のはいまだ聴かざれど重量感ありて佳ならんと思う。
 東都にては三笑亭可楽、三遊亭圓生、もっぱら、これを喋《しゃべ》れど、可楽の「らくだ」はかのならずもの[#「ならずもの」に傍点]なる兄弟分、あまりに調子を張らざるため、全体の噺の感じ、か弱く平板にすぐるをいかんせん。
 圓生のは、いつも折あしく、聴く機なし』

 こんなことを書いてから早いもので、もう八年の月日がそこに経ってしまった。世の中も私も変わったが、噺家の世界もまた変わってしまった。デブの圓生なんか、とうとういっぺんも「らくだ」を聴かないうちに死んでしまった。なぜ贔屓だったこの人の「らくだ」を聴かなかったかといえば、それはこの人の「らくだ」というもの、晩年に手がけだした噺だからである。そうしてその頃私はほとんど釈場へばかり入り浸りで、しばらく噺家の方へは御無沙汰をしていたからである。事変が三年四年と経ち、それが今日のような戦争になり、噺家の世界が急にいろめきだしてきて、私自身もまた文楽の会、志ん生の会、寄席文化向上会と親身に関わりをもつ落語団体がそこへでき、昔日以上のぬきさしならないものが落語界と私との間にできてしまった時、もう圓生はポックリ死んでいて、再びとはあの巨体に接するよしもなかったからである。今にして遺憾のことに思っている(後註――可楽もついこの間、急逝してしまった)。
 さて、もはや、今日の東京の落語界では、当代の「らくだ」役者は志ん生だろう。ついこの間――八月のお朔日《ついたち》――神田花月の昼席の独演会で、親しく聴いた。蒸し暑い蒸し暑い日なのにわれッ返るような大入りで、人混みの中に汗を拭き拭き私はちぢこまって聴いていた(志ん生、文楽を特別に贔屓の梅島昇もすぐ私のうしろのところに来ていた。そうして間もなく梅島は死んだ)。
 志ん生の「らくだ」はだん
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