だん屑屋の酔っ払っていくあの経路も本筋で、その酔っていく段どり、呼吸、その間の時間の経過、いちいちツボにはまっていて申し分なかったが、何より近所合壁どこへ行ってもらくだの死を喜ぶ人ばかり多いこと、いかにもらくだという男の常日頃の性行のほどが如実に見せられて結構だった。さらにそのらくだの死を喜ぶ具合が月番、家主、八百屋とそれぞれの身分に応じての差違あるにおいて、まことに「芸」とはかかるところにこそあると思われ、ことごとく私は満足だった。そういっても名花名木に親しく接したあとのような爽やかな満足感にいっぱい包まれて、上々の機嫌で私は大入りの花月を立ちいでたのだった。
昨日近所の眼鏡屋まで来たと言ってフラリと私の書斎へ現れた志ん生は、談たまたま「らくだ」のことに立ち至った時、先代むらく[#「むらく」に傍点]のそれを説いて、むらく[#「むらく」に傍点]には酔っ払った紙屑屋が湯灌の時らくだの髪の毛を剃刀が切れないとて手で引っこ抜く、そのあと、茶碗酒を引っかけるところで、
「ア、髪の毛がありゃアがら」
と言って茶碗の中のその数本の長い毛を片手で押さえたままグーッとひと息に煽りつけてしまうくだりがあり、このことあって初めて完全にらくだの兄弟分はこの屑屋に圧倒されつくしてしまうのだったと語っていた。私の聴いたむらく[#「むらく」に傍点]の「らくだ」に残念ながらこの記憶はないのであるが、いかにもあのむらく[#「むらく」に傍点]のやりそうな表現で、凄惨である。そういえば早桶を質屋へ担ぎ込んだり、火中に立ち上がる願人坊主の姿を見せたり、死人にかんかんのう[#「かんかんのう」に傍点]を踊らせる以外に、さらにさらにむらく[#「むらく」に傍点]のはなんと棄てばちな人間生活の切れはしをチラリチラリと見せていたものかなと思う(後註――こののち当代小柳枝はわが主宰する寄席文化向上会(大塚鈴本)にて、この演出で驚くべき冴えをみせた。髪の毛のくだりもよく、黒鬼のごとき隠亡の登場も身の毛をよだたしめ[#「よだたしめ」に傍点]、この仁の前途多幸を思わしめた)。
岡鬼太郎氏が吉右衛門一座に与えた「らくだ」の劇化「眠駱駝《ねむるがらくだ》物語」は、おしまいに近所で殺人のあるのが薬が強すぎて後味が悪い。岡さんのいやな辛辣な一面が、不用意に表れているように思われる。陰惨の情景は、あくまでむらく[#「むらく」に傍点]のそれのごとく、終始、らくだの兄弟分と屑屋の言動との滑稽の中で発展さすべきである。それでなくても思えば「小猿七之助」以上に陰惨どん底のこの噺の世界は、わずかに彼ら二人の酔態に伴う位置の転倒という滑稽においてのみ尊く救われているのであるから。ということはそっくりそのままお生《なま》にこの噺を頂戴して、不熟な左傾思想をでッち込み、その頃、雑誌『解放』へ何とかいう戯曲に仕立てた島田清次郎あることによっても立証できるだろうと思う。
それにしても巧い噺家で「らくだ」をやらない人は少なくない。しかしながら「らくだ」のできる人で空ッ下手の噺家ってものは、古来、なかったと考えている。
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「道灌」と「佐平次」と「火事息子」と
――亡き可楽を聴きし頃の手記――
昨夜の三席は愉しいことでした。三遊亭は、いわゆる寄席でもこの人の持ち味は出ず、研究会(現在の)では会場の関係ではしゃぐ[#「はしゃぐ」に傍点]噺以外後方へ聞こえず、結局この「会」以外、めったに全部の「味」の出きらない、およそ特殊な芸風の人とつくづく昨夜は思いました。昔は定員五十人などと愛すべき寄席が街裏にあったと聞きますが、いしくもその頃の噺家の持ち味をたまたま身につけて生まれてきた唯一の人なのでしょう、そういうこともまた涙ぐましく考えさせられました。同時にいつも十枚二十枚ではダメで、七十枚八十枚と書かなければ味の出ない作家ともいえる。
「道灌」は冬を待つ障子の真っ白な色が見え、おつな隠居所らしくうれしかった。久保田万太郎氏が『さんうてい夜話』で書いていられる野村の村雨《むらさめ》のくすぐりも聴かれ、すべて古風でなつかしいものでした。いろいろ孔明その他の本格な故事のいい立ても、まくらの「道灌」ばかりやっていたため※[#歌記号、1−3−28]道灌(瓢箪)ばかりが売り物(浮きもの)か――なる地口《じぐち》ができたという故人某の思い出とともに結構でした。ただ三枚目《ピン》を叱る時の目が少しこわすぎること、それとこの人は時々せっかくの三枚目《ピン》のギャグをムダに(表現で)してしまうことに新しく気づきました。じつはこの春の「長屋の花見」の時うすうす気づいていたことがさらに今度具象的となってきたのでした。が、まだ、ここをこうしてくれと注文が出せるまで、その難点が的確に私の心の中で構成されていません。もう一、二回、可楽の会へ参じてのちの宿題としましょう。「道灌」や「長屋の花見」のような笑いの多い噺の時、ことに感じさせられる(つまり気になる)点なのです。
「居残り」は私には狂馬楽・盲小せん・先代正蔵の時代を懐かしむ意味で何ともいえないものばかりでなく、この人のは先年もなかなか「品川」が描けていてよかった。今回はまたあの時といろいろちがう演出もありましたし、ことに佐平次が「俺は変わったことをして死んでしまいたいんだ」というような変質的な性格であることはたいへん結構と思いました。変質でいておかしい。つまり今の小半治に肚ができたようなへんな奴だったのだと思います、佐平次って奴は。お客をとりまくくだりの泉岳寺の土産の猪口のくすぐりよく、若い衆がいつも言いかぶされてしまうあたりまたじつに愉しく、これはこの噺そのものも傑されているし、可楽もいい演出をしてくれたのだと思いました。この前は翌朝、戸をあけてフーッと深呼吸をし、磯臭いものを感じさせたが、今度はお台場のことを言って雰囲気を出した。どちらもいい。この次には深呼吸をしてからお台場云々へかかってくれたらいよいよいいと思います。決して両方やってもくどくはありますまい。若い衆をまず芝居がかりで脅かし、また、旦那とかみあう時に同様の手口であるのはどういうものでしょう。芝居口調はやっぱりあとの場合だけ小せん流の「忠信利平」で願いたかった。それにしてもその旦那のヌッと顔をみせるところ水際立ったできだったと思います。若い衆とのやりとりでいっぺん表へ出て行ってしまい、またかえってくるのは狂馬楽あたりにある「型」でしょうか。もちろん、こうやっても差し支えないと思いますが本人の工夫かどうか、三笑亭に訊いてみてください。それから相変わらずさしみだの蛤鍋だの鰻だの(鰻の匂ってくる午下りの女郎屋の景色も巧かった)品川らしい食べ物ばかり並べられ、結構でしたがこの前の時言ったあら煮が抜けた。あれはぜひ加えさせたい、品川という道具立てのために。お引けになった佐平次のところへ友だちが訊ねてゆくところはこの前同様、まことに迫真です。佐平次の長広舌(何回か繰り返す)で「当家へ福の神が」云々は何回も繰り返したが「日の暮れになると坂の上から綱っ引きの車が四台」(故正蔵は自動車でしたが)は一回しか言わなかった。あれは情景の点でもおかし味の点でも、必ず繰り返し繰り返ししてほしかったと思います。が、要するにこののち何回も何回も聴きたい「佐平次」ではあることを申しておきます。
「火事息子」は私たちの心のふるさとだったはるかなる日の下町生活を、郷土の声を蘇らせてくれました。火事のまくらが、「道灌」のギャグと同じちょっと呼吸に損な点があるが(必ず次回にこちらの註文の出し方を掴んでみます!)他はことごとく「大真打」としての芸格あるものでした。先代志ん生にこの演出の速記あれど火消しになった若旦那が夢に母に会って泣いているのを仲間に起こされ堅気に戻れと意見される冒頭など充分にさしぐまれました。人物情景もよく出ていた。たまたま昼間から長田幹彦氏の「蕩児」を読んでいたことも一奇ですが、何にしても私は幼い日の下町を美しく思い出していたのです。古い暖簾、黒塀の質屋、初午の太鼓、いろいろの風物詩がホロホロとうかんできたのです。それだけでたいへん幸福でありました。帰りはみぞれのような黒い雨が降っていました。その中を帰って来て、女房と一杯飲んで寝ました。
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拾遺寄席囃子
先代鶴枝
百面相ではかつて先代鶴枝と死んだ福円遊とについて書いたが、まったくもうあの鶴枝ほどの蛸入道は見られない。すててこの合方早目に桃色の手拭い深く面体包んだ鶴枝の蛸は、それこそほんとうの「蛸」そのものになりきっていた。かなしや泥棒になってしまった今の鶴枝も小まんという人も、やはり一番おしまいに蛸はやるけれど、ははあいま[#「ははあいま」に傍点]の鶴枝が、小まんが今ああして蛸の真似をやっているなと感じられるばかりである。ところがそこへゆくと先代鶴枝の場合は、演じている人自身の存在なんかたちまち芋畑の芋の葉かげへスッポリコと隠れてしまい、ただもうそこには大きな蛸の跳躍ばかりが、乱舞ばかりが、いと華やかに、いとおおどかに展開されているのだった。今にして特技といわずにはいられない所以である。
この頃神戸にいる知人から先代鶴枝についてはこんな手紙を寄せてきた。ただし、私は永らく大阪にいながら文中の「部屋見舞」とかいう菓子細工はついに知らないのであるが、たしかに先代鶴枝の技巧的な美しさとは一脈相通ずるもののあるような心もちがしてならない。
曰く
「鶴枝の百面相は猫八の孤憤、日本太郎の咆哮以上なつかしいもの。お嫁をもらうゆえ、箪笥《たんす》をゆずってくれと言われ箪笥の奥から姉が嫁してきた時の『部屋見舞』(関西では色や形とりどりの大きい饅頭を作る)松竹梅や高砂の尉《じょう》と姥《うば》、日の出、鶴亀、鯛等で今でも布袋《ほてい》が白餡で、鯛が黒餡であったことを覚えている。僕は子供の時、間食は焼き芋と果物だけであとは皆キライで食わなかった。鶴枝はちょっとあの感じである」云々。
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狸の小勝
死んだ小勝がしばらく名声隆々としだしてきた頃、「今戸焼」などのまくらで、羽子板には人気役者の二人立ちてのがよくあるが、役者ばかしやらないでたま[#「たま」に傍点]には小さん、小勝の二人立ちでもこしらえるといい、もっともこの間、あったけれど、それは渋団扇だった、よくこうしたくすぐり[#「くすぐり」に傍点]を振っていた。
あの男の独創かと思っていたら、明治三十二年十二月号「文芸倶楽部」には先々代小勝(この間の人のように三升家《みますや》ではなく、三升亭《さんしょうてい》を名のっていた。さらに初代の小勝は江戸時代であるが、声色《こわいろ》に長じ、尾上小勝であったと聞く)の「山号寺号」が載っていてそのまくらに、これははじめから団扇のことにして、
「花鳥を描いた団扇でも、たいていなら三銭五厘か四銭ぐらいで買えますが、これが俳優《やくしゃ》の似顔でも描いてあツて御覧《ごろう》じろう、六銭や七銭はいたします(中略)我々落語社会の顔なんぞ描いたものなんざアありゃアしません。もっともないことはない、いつぞや小勝《わたくし》が牛込の夜見世を素見《ひやか》したら、あッたから見ると、団扇は団扇だが渋団扇でげす、落語家がすててこを踊ッている絵が描いてあるから、いくらだと聴きましたら、値段《ねだん》がわずかに八厘、その傍にまた何にも描いてない団扇がありましたから聴きますとこの団扇も八厘、してみると絵の描いてあるのも、描いてないのも同じことで、誠にどうも落語家ほどつまらんものはございません(下略)」
まさしくこの間の小勝のは、このまくら[#「まくら」に傍点]の単刀直入な換骨奪胎だったのである。それにしてもあのヌケヌケとした小勝にして、己れに「小勝」をなのった以上はよしやまくら[#「まくら」に傍点]のはし[#「はし」に傍点]にしてもこうして先代の何かを継承しようと腐心していたことを思えば、伊藤痴遊氏もかつて憤っていられたごとく
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