。それにしてももう今では「東京の人でない」どころか、この世の人ではなくなってしまった。
「立花家橘之助は、今も六十近くを、あの絶妙な浮世ぶしの撥《ばち》さばきに、薬指の指輪をさびしく、かがやかせているであろうか※[#感嘆符疑問符、1−8−78] その頃(震災の二年ほど前)橘之助は、小綺麗な女中をつかって四谷の左門町に二階を借りていた。
 あたしはその鴉《からす》鳴く四谷の秋たそがれ、橘之助自身からそのかみの伊藤博文と彼女にまつわる、あやしい挿話を聞かせてもらったことがある。
 橘之助は、博文公と、かなり、前から深い知り合いだったものらしい。で、公がハルピンへゆかれる時も、その送別の席上、
『こんど、俺が帰ってきたら、有楽座のようなボードビルを建ててやるから、自重して、そこへ年二回くらい出るようにしろ』
 と、橘之助に言った。
『御前、それはほんとうですか』
 夢かとよろこんで橘之助は、公をハルピンへ発たせたが、それから数カ月、ある夜、人形町の末広がふりだしで橘之助、高座へ上がると三味線が鳴らない。べんとも、つんとも、まるで鳴らない。とうとうそのまま高座を下りたが、悪寒はする、からだは汗ばむ。橘之助、何十年三味線を弾いていて、こんな例は一度もない。――昔、何とかいう三味線の名人が品川で遊んで(原武太夫のことだろう、何とかいう三味線の名人とその時の橘之助は言ったっけ)、絃の音色で大海嘯《だいかいしょう》を予覚したという話さえ思い出して、遠からずこれは何か異変があるのじゃないかとさえ、心ふるえた。
 そうしていやいやながら顔だけ出そうと、ほかの席はすっかりぬいて、トリの恵智十へ入るとたちまち、こんどは、スッと胸が晴れた。そういっても、いつもより、かえって、ほのぼのと、すがすがと、弾いた、歌った、いつもの五倍もはしゃぎにはしゃいで、さて、そのあくる日、湯島の家で昼風呂につかっていると、
『号外ーッ』というけたたましい声々。
 はて――と小首をかしげる間もなくその号外は、
『伊藤公ハルピンにて暗殺さる』
 さてこそなゆうべ[#「ゆうべ」に傍点]の鳴らざりし三味線と初めて橘之助、心にいたましく肯いたとは言うのだったが……。
 これを聞き終えた一瞬、妙にあたしは橘之助の、あの大狸のような顔がもの凄《すご》いありったけに思えて、ぞっと水でも浴びた心地に、四谷の通りへ駆けて出ると、秋の夕の小寒い灯が、ここでも、何がなし、あたしの瞳にいぶかしく、映ったことを記憶《おぼ》えている」
 さらにそれから三、四年してまた私は、あるところへこのように橘之助について、書いたこともある。
 そうしてまだまだこのほかにも橘之助自身から数奇な自伝の一節を、いろいろさまざまに私は聞かされている。たとえば彰義隊の戦《いくさ》の時の話や、神戸へ行く蒸気船のなかで水銀を呑まされた話や、同じくその船の中で幼少から男装していたため異人の少女にひとかたならず恋された話や、それらはすべて三遊派の宗家藤浦富太郎氏の参与していられた雑誌「鈴の音」へ、立花家橘之助その人の名で、年少の日の私が稚拙の筆を駆り立てて多分一、二回連載で書かせてもらっている。元よりその雑誌、もう私自身も持っているよしもないのであるが――。
 それにしても橘之助、あれほどの一種の女傑でありながら色ざんげらしいことは毛ほども喋ろうとしなかった。まだこっちがてんで子供だったせい[#「せい」に傍点]もあろうが、前掲した博文公との話でもかつて石谷華堤さんに話したら公との情話らしく扱われて[#「公との情話らしく扱われて」に傍点]まことに困ったなどと大真面目で語っていたことを思う時、別な橘之助の一面をそこに見せられた気がしてならない。ところで橘之助はこの左門町へ移る前は、やはり薬研堀《やげんぼり》の路地の清元《きよもと》の女師匠の二階を借りて住んでいた。そうしてそこの二階のある日の景色もまたそっくりそのまま、私は震災の春、世に問うた「影絵は踊る」という未熟な長篇小説の中へ写し出している。
 このようにして考えてみると立花家橘之助と私との縁《えにし》の絲はなかなかに深く、そういえばその「影絵は踊る」の女主人公も橘之助門下の某女だったし、橘之助と艶名を謳《うた》われた三遊亭圓馬(その頃のむらく[#「むらく」に傍点])が私の師父にあたっているし、さらに私と多年の交わりがあり、それゆえに昨春[#「昨春」は底本では「咋春」]、七世橘家圓太郎を襲名させた新鋭はたまたま橘之助最後の夫たる先代圓の門人。すなわち今なお私の、橘之助夫妻のため、毎朝念仏唱名している所以《ゆえん》である。
 さて、そうした縁あればこそだろうか、この頃になってさるところから私は、橘之助の絵葉書三葉をもらった。それは彼女自身の蔵版とみえ、袋に「うきよぶし家元、石田美代事 初代 橘之助」と紫色のスタンプインクが押してあり、内容な年少断髪の高座姿(圓朝賛、圓橘画)とやや老けている時代と、そうして晩年に近いあの姿とである。なつかしい東京の忘れ形見として、いつまでも私は大切にとっておきたいと思っている。
 たった一枚、わが愛蔵の音盤はとっちりとん[#「とっちりとん」に傍点]の「あひるの卵」。何よりパチンと卵の殻の破れるその撥《ばち》さばきが至宝である。
 同じとっちりんとん[#「とっちりんとん」に傍点]で朝顔の琴の音はあまりにも如実に、三番叟《さんばそう》への鈴音は迫真のなかにさんさんとふりそそぐ春の日、またその日の中に光りかがやく金鈴の色を手にとるように見せてくれた。
 ※[#歌記号、1−3−28]水戸様は丸に水……という大津絵の「水づくし」も古風で軽妙至極のものだったし、十八番の「狸」には芳藤描く江戸|手遊絵《おもちゃえ》の夢があった。
 自ら浮世節家元を唱えていたが、そもそも浮世節とは市井巷間《しせいこうかん》の時花《はやり》唄の中に長唄清元、常磐津、新内、時に説教節、源氏節までをアンコに採り入れ、しかもそれらがことごとく本筋に聴かし得て、初めてその名を許されるのではなかろうか。それにはまた、曲弾きとはいえ、橘之助の場合、決してただ単に三味線をオモチャにして奇を衒《てら》っているのではなく、あくまで姿態や情景をそこにほうふつと見せてくれていたところに立派な不世出な芸境があったとはいえよう。
「狸」といえば、一番おしまいにこの人を聴いたのが、昭和九年秋、東宝名人会第一回公演のしかも初日、死んだ新内の春太夫などといっしょに出演して、いとしみじみと力演したのが「狸」だった。
 そのあくる年の夏、橘之助は京都の大洪水《おおみず》で、夫の圓と死んでしまった。
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    圓太郎の代々

 私に
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南瓜咲くや圓太郎いまだ病みしまま
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 の句がある。去年昭和十七年の春、七代目橘家圓太郎を私たちが襲名させ、たった二へん高座から喇叭《ラッパ》を吹かせたままでいまだに患いついてしまっている壮年の落語家の上を思っての詠である。もうそろそろそれから一年目になるこの浅春、だいぶ快方に赴いたらしい手紙を本人からもらい、いかばかりか私はもちろん、平常《ふだん》からひと方ならず目をかけてやっていた女房も喜んだものであるが、いまだに八王子からやってこないところを見ると、まだほんとうには快《よ》くならないらしい。早く治してやりたいものである。病んでも片手にしっかりと真鍮《しんちゅう》の喇叭を握りしめたままでいるという話を聞くにつけても(この校正中、本人、まったく回復、元気来宅した)。
 私の手もとに襲名の時調べた橘家圓太郎の代々があるから、詳しい一人一人の月旦はまた他日として、この際ほんのメモ代わりに書きつけておいてみよう。
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初代圓太郎――江戸湯島住。二世圓生門人音曲をよくす。圓朝の父。
二代圓太郎――圓朝門下、三世圓生。
三代圓太郎――大声の文楽門人金楽。のち圓朝門に入り、圓寿改め圓太郎。
四代圓太郎――圓朝門下、はじめ万朝。かの乗合馬車の御車の口真似して喇叭吹き鳴らし、俗に喇叭《ラッパ》の圓太郎。滑稽音曲噺の達人。
五代圓太郎――四世圓生門下の音曲師、早くより上方にあり、京阪にて終始せり。はじめ二代目圓三、のち先代圓馬門に投じ、小雀、伯馬、小圓太を経て、明治三十四年三月襲名。
六代圓太郎――よかちょろ[#「よかちょろ」に傍点]の遊三門下小遊三、公園より六代目を襲う、ひと頃は鳴らせる音曲師なり。
七代圓太郎――先代橘の圓《まどか》門下。百圓より七代目圓太郎たり。
[#ここで字下げ終わり]
 これを要するに二代三代は知らず、他はことごとく音曲師だったわけである。
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   続寄席囃子



    鼻の圓遊・木更津

 昔の芸人には、ずいぶん愉しい心意気の人がいた。
 中でもすててこをはやらせた鼻の圓遊は、
「俺は、まだ、いっぺんも駆け落ちをしたことがない。死ぬまでにいっぺんでいいから、駆け落ちの味を知っておきたいものだ」
 と言って、晩年、とうとうさる[#「さる」に傍点]商売女を頼んで、木更津まで逃げてもらったそうである。
 頼んで逃げてもらったのでは、まるで京伝の黄表紙にある「艶気蒲焼《うわきのかばやき》」の浮気屋艶次郎みたいなもので、
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※[#歌記号、1−3−28]こんなえにしが唐紙の
 鴛鴦《おしどり》のつがいの楽しみに
 泊まり/\の旅籠《はたご》屋で
 ほんの旅寝の仮まくら
 うれしい仲じゃないかいな
[#ここで字下げ終わり]
 と「落人」にあるような味な雰囲気なぞ滲み出そうわけもなくどこまでも艶次郎で、すなわち道行興鮫肌であったろうと想像されるが、本人はどうして、なかなかの御機嫌で、「これでやっと終生ののぞみがかなった」と言ってノメノメと帰って来たそうだから、世話はない。
 いかにも、時世のよかった頃の芸人の横顔をまざまざと見せられる感じではないか。
 お通夜の晩に、お経の代わりに二十五座の馬鹿囃子をやってくれと頼んで死んだのも、この圓遊だった。――その遺言はさっそくに実行されたと聞いているが当時の圓遊はたしか、浅草の三筋町に住んでいたはずだ。
 今のように、落語家がお大名のお下邸みたいな邸宅を構えない時代だから、おそらく一世をときめいた圓遊の住居も、いかにも、旧東京らしい、下町らしい、慎みぶかい人情をもった小意気な世帯だったにちがいない。
 そうした家から、夜をひと夜笑いさざめく声とともに(断っておくが、世に、落語家のお通夜ほどバカバカしく、おもしろいものはない。これだけは今日といえども変わっていない)、テケテン、テンドンと流れてきたろう馬鹿囃子の音色を考えると、明治の末年らしいしめやかな「東京の呼吸」をなつかしく感じないわけにはゆかない。

 ところで、圓遊の逃げた先が上総《かずさ》の木更津だったとのことだが、かの切られ与三郎を待つまでもなく、江戸末年から明治へかけての木更津は、ひと頃の横浜ぐらいに、繁華な文明な、うれしい港であったにちがいない。
 すでに「初天神」という落語の、職人夫婦の物語にも、
「俺とお前が木更津へ逃げた時分のことを考えりゃア……」
 というセリフがあるし、先々代圓蔵が得意とした「派手彦」で白鼠の番頭さんが阪東なにがしという踊りのお師匠さんを病気になるほど思いつめ、とど夫婦になる。
 この、美しいお師匠さんが、お祭りによばれてゆく先もやっぱりかの木更津である。
「義士伝」の倉橋伝助が、まだ長谷川金次郎といって飲む打つ買うの三道楽であった時分、江戸を食いつめて、落ちゆく先も御多分に洩れず、木更津だったと覚えている。
 私は、今から二十年以上――といえば、まだ、十二、三の時であるが――いっぺん、行っただけであるが、夏は町はずれの蓮田へひらく紅白の花の美しさを今も身うちの涼しくなる風情に思い返すことができる。
「木更津甚句」という、明治中世のはやり唄には
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※[#歌記号、1−3−28]木更津曇るともお江戸は晴れろ

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