ちょっとすばらしい大げてもの[#「げてもの」に傍点]だったとはいえよう。やってみせることの全部が全部皆くだらなすぎて、げて[#「げて」に傍点]もここまできてしまえば、これはこれでまた充分に結構じゃなかったのかと今にしてつくづく思う。
「昔は日本太郎などというゲテものは岡鬼さんの当座帳などでうんとやられたものだったと思うが、今ではその日本太郎味が時に少々ナツカシクなるなどは、星移り時変わるですね」
と木村荘八画伯が「寄席冊記」(大正十四年)の中で言っていられるのももっともで、大正十四年にしてすでにしかり、昭和十九年の今日、初老の私が昔なつかしくこれを書いているなど、ことわり[#「ことわり」に傍点]すぎて道理なりと言いたいくらいのものだろう。
さてその日本太郎が松葉とかいう色の黒い馬面の女とつるみ[#「つるみ」に傍点]高座でそののち睦の寄席へ現れ出したと思ったら間もなく消えて、震災の翌年の九月には、牛込肴町の柳水亭という端席へ、独演会の看板を上げた。ひどい晩夏の土砂降りの晩だったが、私はいそいそ聴きに出かけた。白状してしまうが、この、いそいそは単に日本太郎聴きたさのためばかりじゃなかっ
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