総《かずさ》の木更津だったとのことだが、かの切られ与三郎を待つまでもなく、江戸末年から明治へかけての木更津は、ひと頃の横浜ぐらいに、繁華な文明な、うれしい港であったにちがいない。
 すでに「初天神」という落語の、職人夫婦の物語にも、
「俺とお前が木更津へ逃げた時分のことを考えりゃア……」
 というセリフがあるし、先々代圓蔵が得意とした「派手彦」で白鼠の番頭さんが阪東なにがしという踊りのお師匠さんを病気になるほど思いつめ、とど夫婦になる。
 この、美しいお師匠さんが、お祭りによばれてゆく先もやっぱりかの木更津である。
「義士伝」の倉橋伝助が、まだ長谷川金次郎といって飲む打つ買うの三道楽であった時分、江戸を食いつめて、落ちゆく先も御多分に洩れず、木更津だったと覚えている。
 私は、今から二十年以上――といえば、まだ、十二、三の時であるが――いっぺん、行っただけであるが、夏は町はずれの蓮田へひらく紅白の花の美しさを今も身うちの涼しくなる風情に思い返すことができる。
「木更津甚句」という、明治中世のはやり唄には
[#ここから1字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]木更津曇るともお江戸は晴れろ

前へ 次へ
全52ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング