『らくだ』は、一度、紅梅亭の客薄き夏の夜に聴きたるのみなりしが、あの人独自の、おかしくもたあいなき口吻《こうふん》、天下の珍にて、
『へへ、へえ、ほ、ほたら、やら、やらさせて、もらいま……』
と、あわてふためいてはいでてゆく屑買いの物腰に、我ら、噴飯爆笑を重ねぬ。
――他に上方にては桂圓枝、この噺を十八番となす。紙屑屋の次第次第に酒の廻りて、果てはならずもの[#「ならずもの」に傍点]にくってかかる時、顔面蒼白に見えし「芸」の力、今に忘れず。当代松鶴のはいまだ聴かざれど重量感ありて佳ならんと思う。
東都にては三笑亭可楽、三遊亭圓生、もっぱら、これを喋《しゃべ》れど、可楽の「らくだ」はかのならずもの[#「ならずもの」に傍点]なる兄弟分、あまりに調子を張らざるため、全体の噺の感じ、か弱く平板にすぐるをいかんせん。
圓生のは、いつも折あしく、聴く機なし』
こんなことを書いてから早いもので、もう八年の月日がそこに経ってしまった。世の中も私も変わったが、噺家の世界もまた変わってしまった。デブの圓生なんか、とうとういっぺんも「らくだ」を聴かないうちに死んでしまった。なぜ贔屓だったこの人の「らくだ」を聴かなかったかといえば、それはこの人の「らくだ」というもの、晩年に手がけだした噺だからである。そうしてその頃私はほとんど釈場へばかり入り浸りで、しばらく噺家の方へは御無沙汰をしていたからである。事変が三年四年と経ち、それが今日のような戦争になり、噺家の世界が急にいろめきだしてきて、私自身もまた文楽の会、志ん生の会、寄席文化向上会と親身に関わりをもつ落語団体がそこへでき、昔日以上のぬきさしならないものが落語界と私との間にできてしまった時、もう圓生はポックリ死んでいて、再びとはあの巨体に接するよしもなかったからである。今にして遺憾のことに思っている(後註――可楽もついこの間、急逝してしまった)。
さて、もはや、今日の東京の落語界では、当代の「らくだ」役者は志ん生だろう。ついこの間――八月のお朔日《ついたち》――神田花月の昼席の独演会で、親しく聴いた。蒸し暑い蒸し暑い日なのにわれッ返るような大入りで、人混みの中に汗を拭き拭き私はちぢこまって聴いていた(志ん生、文楽を特別に贔屓の梅島昇もすぐ私のうしろのところに来ていた。そうして間もなく梅島は死んだ)。
志ん生の「らくだ」はだんだん屑屋の酔っ払っていくあの経路も本筋で、その酔っていく段どり、呼吸、その間の時間の経過、いちいちツボにはまっていて申し分なかったが、何より近所合壁どこへ行ってもらくだの死を喜ぶ人ばかり多いこと、いかにもらくだという男の常日頃の性行のほどが如実に見せられて結構だった。さらにそのらくだの死を喜ぶ具合が月番、家主、八百屋とそれぞれの身分に応じての差違あるにおいて、まことに「芸」とはかかるところにこそあると思われ、ことごとく私は満足だった。そういっても名花名木に親しく接したあとのような爽やかな満足感にいっぱい包まれて、上々の機嫌で私は大入りの花月を立ちいでたのだった。
昨日近所の眼鏡屋まで来たと言ってフラリと私の書斎へ現れた志ん生は、談たまたま「らくだ」のことに立ち至った時、先代むらく[#「むらく」に傍点]のそれを説いて、むらく[#「むらく」に傍点]には酔っ払った紙屑屋が湯灌の時らくだの髪の毛を剃刀が切れないとて手で引っこ抜く、そのあと、茶碗酒を引っかけるところで、
「ア、髪の毛がありゃアがら」
と言って茶碗の中のその数本の長い毛を片手で押さえたままグーッとひと息に煽りつけてしまうくだりがあり、このことあって初めて完全にらくだの兄弟分はこの屑屋に圧倒されつくしてしまうのだったと語っていた。私の聴いたむらく[#「むらく」に傍点]の「らくだ」に残念ながらこの記憶はないのであるが、いかにもあのむらく[#「むらく」に傍点]のやりそうな表現で、凄惨である。そういえば早桶を質屋へ担ぎ込んだり、火中に立ち上がる願人坊主の姿を見せたり、死人にかんかんのう[#「かんかんのう」に傍点]を踊らせる以外に、さらにさらにむらく[#「むらく」に傍点]のはなんと棄てばちな人間生活の切れはしをチラリチラリと見せていたものかなと思う(後註――こののち当代小柳枝はわが主宰する寄席文化向上会(大塚鈴本)にて、この演出で驚くべき冴えをみせた。髪の毛のくだりもよく、黒鬼のごとき隠亡の登場も身の毛をよだたしめ[#「よだたしめ」に傍点]、この仁の前途多幸を思わしめた)。
岡鬼太郎氏が吉右衛門一座に与えた「らくだ」の劇化「眠駱駝《ねむるがらくだ》物語」は、おしまいに近所で殺人のあるのが薬が強すぎて後味が悪い。岡さんのいやな辛辣な一面が、不用意に表れているように思われる。陰惨の情景は、あくまでむらく[#「むらく
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