てに刻し、別に三代目小さん、建之云々とありけり。
 さるにても姫野里人とは誰が戯名にや? 春秋二十歳、ついに吾人が記憶より去らねどもわからず」
 この小文をしたためて、もう八年の歳月が経つ。今春だったろうか、たまたま得たそのかみの暴露雑誌「うきよ」(大正三年四月号)には、折がら馬楽の死について葭水四幸という人のこんな記事が載せられているから引いてみよう。
「死ねば深切な人ができると緑雨は言った、死なぬ中に深切な人をたくさん持った馬楽はホンマに幸福な男だ、極楽往生だと言える」
 たったこれだけなのであるが、いかに生前、馬楽の礼讃者の多かったかがわかるではないか。岡鬼太郎氏は早くに馬楽の才に傾倒していたよしであるが、もうこの時代には吉井勇先生が、久保田万太郎、岡村|柿紅《しこう》両氏が馬楽礼讃の、短歌を、随筆を、それぞれ発表しておられ、蝶花楼馬楽の名声はよほど社会的のものだったことがうなずかれる。
 なるほどなるほど、狂馬楽の最後は、必ずしも不幸だったとばかりは言えないかもしれない。
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    小文枝の「三十石」

 今は空しき桂小文枝、「ひやかし」と「三十石」のみ得意として、関西落語の中堅なりしも、その芸風は淡々と手堅く、あてこみのなき高座なりけり。

 小文枝没して数年の今日この頃、その得意とせる「三十石」レコードを聞けば、冒頭、船頭のぼやきわめける一節に曰く、
「この頃は岡蒸気にばかり、我も我もと乗りゃあがってこつとら[#「こつとら」に傍点]は風呂屋の煙突を見たかてむかつくのや。ケム[#「ケム」に傍点]の出たるもの見たら、ムカムカムカムカしてかなわんがな」云々。

 ――これ小文枝の独創なるや、前代名人の創作なるや、元より知らねど、明治初年の三十石風景、まざまざ見えて歴史の匂いいと愉しからずや。
 亡小文枝を、何かにつけてこの頃せつに回想する所以のものかくのごとし。
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    「らくだ」

 かつて私は「らくだ」について、左の一文をしたためたことがある。
「三代目小さんが『らくだ』は、京師の名人桂文吾写しのきわめつけなりしが、実体なる紙屑屋のしだいに杯一杯と酔い募りゆくあたり、思い出すだに至宝なりけり。
『うちへ帰れば餓鬼が四人もありやして、ヘイ……毎朝、飯《めし》ン時なんぞは飯粒だらけの中でおまんまを食べるんで』
 と、いまだ酔わ
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