談じた。小さん(柳家・三代目は「小言幸兵衛」だった)をやったのも立花なら、先代助次郎の追善もまれに大阪から圓馬が来ても。――今の馬楽の独演会は決まって、第一日曜で、いつも二十人そこそこの人が、馬楽と一緒に寂しかった!。
 両国の立花家は、昼席に川蒸気の笛が烈しく聞こえた。永井荷風の著作を手にした、黒襟の美しい女たちが、どうかすると桟敷に来ていた。――はばかりへ立つ通りみちに、禿げちょろけた鏡が懸かって、「一奴、紋弥、小南」などと、当時でさえもすでに古びた、金字で芸名が書かれてあった。一奴[#「一奴」に傍点]は、今、大阪にいる立花家|花橘《かきつ》。あれも私は、忘れかねる(ついでに言うが、路地を踏んでゆく寄席の味は、まずこの両国の立花だった。それから浅草の並木だった。ことに、雨でもふると、それがよかった。――昼席の記憶は、自分にはないが、二洲の高座もあやしく美しい思い出である。拓榴《ざくろ》口みたいにかかれた牡丹! がらんと空いていて青い瓦斯の灯、表を流しがよく通った)。
 薬師の宮松には落語研究会が、しょっちゅう[#「しょっちゅう」に傍点]あった。そこの盆の十六日に、ぎっちり詰まった二階から、仰いだ広重の空の色も、私は今に忘れられない。――宮松の庭には、拓榴があった、そうして、その頃、花が開いた。――大阪から笑福亭松鶴(四代目)がきて「植木屋の娘」というのをやった。小さんが「猫久」を「お前の魂を拝んでるんだ」より、あとを続けて、しかし一向につまらなかった。いやそれよりも、圓蔵が昔噺は「夏の医者」で、麦わら大蛇の可笑しさよ!
 ――ほんとうに、昼席の、やるせない薄ら明かりほど、夏といわず、秋といわず、冬といわず、しみじみと都会の哀しみを知らせてくれるものはない。
 震後絶えて久しき昼席を、それでも、今年辺りからまたぽつぽつと始めたらしい。つい、この間も人形町の末広で、燕路《えんじ》の会というのがあった。「白木屋」や「山崎屋」や物真似や、梅にも春の芸者二十四刻の踊りを、まだ若い燕路(柳亭・四代目)は器用にやった。葭町の美しい人たちが、花のようにいっぱい集まって、私は久方で昼席のしじまのよさに涙ぐんだ。――と、相次いで立花に「稽古会」なるものが起こされると、私は、あすこのあるじから耳にした。――こうして昼席が相次いで起こってゆくのは、また、一つ、都会によきものの[#「ものの」に傍点]哀れが加わるだけでも、ほんとうにいいことだと想われる。
 しかし、くれぐれも昼席は、四季を通してほのかに曇った午後でありたい。あんまりギラギラとしたお天気の時ではことに夏など、寄席を出てからやるせなさすぎる! 昼席は、そこでお天気がよかったら、
「今日あまり、晴天につき、残念ながら、休席!」
 ということにしたら、どうだ※[#感嘆符三つ、76−5] 呵々。

     むらく

 朝寝房むらくは柳昇である。毛筆で描いた、明治の文学冊子における、小川未明氏[#「小川未明氏」に傍点]が肖像の如き、坊主頭の今のむらくは、つい、先の日の柳昇である。――私は、この人を、今の東京の噺家の中で、それも老人大家たちの中で、かなり、高きに買っている。得がたき人だと思っている。
 今の世の、さても客べら棒は、むらくが出ると「酔っぱらい」とのみ注文するし、当人も、近頃人気のなくなったせいか[#「せいか」に傍点]、たいてい「酔っぱらい」ばかりでごまかしては下りてゆくが、その「酔っぱらい」にしても! だ。あの調子っ外れで、いやにはにかみ屋で、妙にきちんと両手を膝にのせて、諷《うた》う時決まって不自然に右手を高くあげたやぞう[#「やぞう」に傍点]をこしらえて――といったような段どりよろしく諷い始める、めちゃめちゃに文句の錯乱した「梅にも春」や「かっぽれ」は、聞きこめばこむほどいいものである。――「くやみ」で、あるいはラジウムを説き、あるいは野菜ものの相場に至り、女房ののろけ[#「のろけ」に傍点]を言って帰ってゆく、そのとりどりの嘘でない可笑しさ!
「輜重輸卒《しじゅうりんそつ》[#「輜重輸卒《しじゅうりんそつ》」はママ]」で、あの「ふ、ふ、ふあーっ」と世にも奇矯な声を随所に張りあげて、「電信柱に花が咲く」を朗々誦めば、
[#ここから2字下げ]
紅い夕日の照る阪で
我れと泣くよな喇叭《ラッパ》ぶし――
[#ここで字下げ終わり]
 と白秋の陶酔したかつての日の東京さえが、深紅にまざまざと映像する?
 が、何といっても、むらくの一番ありがたいのは、あの「ふ、ふ、ふ、ふあーっ」と、会話のなかで与太郎や生酔が随所に突拍子もなく叫ぶあの味である。「ふ、ふ、ふ、ふ、ふあーっ」と声を張り上げていって、あげくに、「ぎゅっ」といったような、まるで、卵を踏みつぶしたような音響をさせるあの味である。――爆破した軽気球か? と私はいつも疑いさえする。――まったくあれがしんしょう[#「しんしょう」に傍点]である――。「ずっこけ」で彼が諷うよしこの[#「よしこの」に傍点]には、
[#ここから2字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]火事があるから出てみてごらん
 遠けりゃ戸をしめて――
[#ここで字下げ終わり]
 ここで一調子、奇妙にあがって、
[#ここから2字下げ]
お寝よ、ふわっ、ふわっ!
[#ここで字下げ終わり]
 と言うのすらある。最もむらくに風格的な歌だといってよかろう。
 しかし、どこから、何から、いったいはじめにああいう「ふ、ふあ、ふあ、ふあーーっ」といったようなことを言い始める了見になったのだろう? この私がいっぺんむらくにとっくりと膝を抱いて聞いてみたいところのものである――(作者註――このむらくのち発狂して死す)。

     君見ずや「かっきょの釜掘り」

 ※[#歌記号、1−3−28]圓遊すててこ、談志の釜掘り、遊三《ゆうざ》のよかちょろ、市馬《いちば》の牡丹餅――今もこういう寄席の竹枝《こうた》が、時おり、児童《こども》の唇《くち》にのぼる。※[#歌記号、1−3−28]かっきょの釜掘り、てけれっつのぱあ――は、その先々代立川談志(私は、元より不知。風貌、聞くならく、桂小南に似たりという)の専売だったという。――すると、談志の創作なのか、それ以前にもあったのか、師、吉井勇の話によると、鼻の圓遊もやったそうだ。――今では、東西にたった二人、初代橘家三好(今の三代目圓好)と、大阪にいる橘家小圓太だけだ。
 しかし世の中にあんな痛快で得体がしれず、意味が紛花《こか》で、振りがでたらめで、節廻しと太鼓が悲哀の極みで、あやしく美しく所以《ゆえん》なく哀しく、あとからあとから泪のこみあげてくる踊りはない。――あれは、我が寄席がもつ、一番文明の踊りだと言ったってかまわない。
 圓好のと小圓太のとは、全然、もってゆき方がちがって、もちろん、圓好の開化な味に比すべくもないが、ムードは両方ともおもしろい。
 ――私は、まず、あの文句が好きだ、ちっとも意味のなさすぎる文句が!
 まず蒲団を畳んで子供のようにしっか[#「しっか」に傍点]とかかえる。鉢巻きをして、扇子を頭へさしかける(小圓太は支那人の意でさらに羽織を裏返しに着る。そしてあと[#「あと」に傍点]のすててこのところでぬぐ)。そうして、はじまり、はじまり――だ。
 まず唐茶屋の台詞みたいな、※[#歌記号、1−3−28]あじゃらかもくれん、きゅうらい、てこへん――といったようなことを言って「てけれっつのぱあ」とやる。どーん[#「どーん」に傍点]とここへ太皷が入る(哀しい!)。※[#歌記号、1−3−28]高座にふとんに火鉢に鉄瓶、てけれっつのぱあ ふとんをこうして子供に見立てて、てけれっつのぱあ――かっきょ[#「かっきょ」に傍点]はかかえた子供を、ほんとうに親愛をこめて、高座をぶらぶらしながら見入る。そうして、悲痛な面持ちで※[#歌記号、1−3−28]お前があったら孝行ができない、てけれっつのぱあ――ここで片すみへ子供をおく。再び、ぐるぐる歩きだす。※[#歌記号、1−3−28]一天四海は法華の法だよ、てけれっつのぱあ ――もう一度、高座のまんなか[#「まんなか」に傍点]へ帰る。そうして、ぺちゃん[#「ぺちゃん」に傍点]と座って子供の顔を見る。※[#歌記号、1−3−28]きょうが十七、あしたが十八、あさって十九でぱあ (これは日によってよろしくちがう)――いかにも「花暦八笑人」に死期の迫ったもののように、やるせなく指をかがなうる。このへんから、節はだんだんおろおろふるえる。※[#歌記号、1−3−28]吉原|花魁《おいらん》手紙は出すけど、外へは出られぬぱあ ※[#歌記号、1−3−28]こっちでのろけて向こうじゃ知らない、てけれっつのぱあ ※[#歌記号、1−3−28]くどいて、おどして、なだめて、すかして、やっぱりふられるぱあ ――唄はまったく泪にまぶれる。
 と、ここで調子が、にわかに早まる。さっ[#「さっ」に傍点]と一脈の明るみが流れる。※[#歌記号、1−3−28]さいこたくまか[#「さいこたくまか」に傍点]出た、てけれっつのぱあ ――圓好の手が鍬《くわ》になる。孟斎芳虎えがくの唐人に、さっと赤土が高座をかつ[#「かつ」に傍点]ちる。これから文句は、べら棒に急激! とど子供を投り込んで、すててこになるといったような次第である。が、小圓太の方は、もうちっと、ちがう。これは、本朝二十不孝! だ。無意識に構成された二十四孝への江戸っ子的文明の反逆! だ。すなわち、子供を埋める動機がまったく正風の逆である。曰く※[#歌記号、1−3−28]この子があったら浮気ができない[#「浮気ができない」に傍点]、てけれっつのぱあ――そこにすべてが出発している。だから、子供を蹴ちらすとたちまち二人は相乗り車! ※[#歌記号、1−3−28]相乗り幌かけ頬と頬がぺっちゃり、てけれっつのぱあ――とおいでなさる!
 いずれにもせよ、だがこのくらい、悲哀を大きな玻璃玉《はりだま》にして打ちつけてくれる踊りはない。花やかな憂鬱。きらびやかな悲哀。
 ――私は、この踊りに見とれている時ほど、こよなき人の眸《ひとみ》の中をでもじっと見つめているような、うれしくかなしくいたましい思いをすることはない。
 されば、声を極めてかくは私も叫ぶのである。
 君見ずや、かっきょの釜掘り!ああ君見ずや、かっきょの釜掘り※[#感嘆符三つ、81−8]と。

     才賀の死

 やまと[#「やまと」に傍点]が死んだ。東京へつばくろが訪れ出したら、才賀となってとうとうやまと[#「やまと」に傍点]は死んでしまった。
 巧かった。
 せん[#「せん」に傍点]の桂文楽(五代目)だ。
 惜しいものをこじき[#「こじき」に傍点]にした。
 そう思うと、圓右(初代)より、今輔(古今亭・三代目)より、やまと[#「やまと」に傍点]の逝《ゆ》いたが、一番惜しい。第一、やまと[#「やまと」に傍点]の晩年は、小圓朝(三遊亭・二代目)より暗かった。まるで看板に名がなかった。せん[#「せん」に傍点]の談志(立川・五代目)で今の金駒(になって、そののち、どうしているか?)も、実に影のうすい二つめ所に堕ちていたが、やまとの方は、金駒の芸とは比べられないだけさらにまた惜しいと思う。ことに近年私は、彼、やまとを愛することより何より強く、せいぜい辻びらの隅っこに小さな彼の名を見つけしだい、追っ駆け追ん廻して歩いたが、ついに一度も聞けなかった。体が悪いというかどで、ただ、楽屋廻りだけしているのだと。これは昔、彼の世話になった今の若い真打たちがせめてもの彼への報恩のためであったらしい。しかし、おかげで私はとうとう最後まで、彼の近影に親しめなかった(最も、そういう内的な、楽屋うちでのやまとは晩年まで恵まれていた。林家正蔵のごとき、やまとのためにのおはな会《よみきり》ならそれこそ万障繰り合わせても出向いていったかの観がある。現に病歿のすぐ以前にも、むつみと協会と合同で、一昼夜にわたる演芸会さえ催した。やまとはそこで才賀なる父の名を襲いで、そ
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