しが手につかず、あぐねてポカンとしていたからだった。古今亭志ん太君が入って来た。志ん生君が今夜私と忘年宴を張りたいからというその使者だった。すぐ仕度していっしょに出かけた。東宝名人会まで行って打ち合わせ、志ん太君の案内でひと足先へ新宿の廓の裏にあるささやかな料亭へ連れて行かれる。座敷に胡瓜と空豆の其角堂の夏の色紙がかかっていた。間もなく志ん生君、駆け付けて来て飲みはじめる。まず麦酒《ビール》、それからお酒。なめこ[#「なめこ」に傍点]の赤だしが美味しかった。私と志ん太君だけ海鼠《なまこ》をやり、歯の悪い志ん生君は豆を食べる。豆で飲むとは奇妙なり。この間、同君が落語化上演した拙作小説『寄席』を中心に、いろいろ芸談が、次々とでる。今も決して自分を巧く思っていないという志ん生君の言葉に打たれる。私は五カ月悶々した『圓朝』について語る。同君、これも上梓されたら演りたいと言う。ぜひ私も演ってもらいたい。今の世にもっとも我が愛するところの落語家は志ん生、文楽の二君。この両君と酔いては芸談を語り合う自分は、いろいろの意味で幸福なり。うれしくなって大いに飲む。酔って何べんか志ん生君と握手する。夜更け、
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