三つちがいの兄さんも――と、重い太皷の鳴り渡るのも歌六がやれば嬉しい。すててこ[#「すててこ」に傍点]を踊る芸人も、二代目|圓左《えんざ》の他にはこの歌六ばかりになったろう、翫之助のではたまらないし。
 それにしても、いつも白い真夏が、しずかにあやしく東京の街へ訪れてくると、いっそう私は歌六の上を思うようになる。歌六のあの姿にはどうしてもぷんと紺の香の漂う手甲姿でやってくる、青い蝮売《まむしう》りを思わせるにふさわしいものがあるからだ!
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きょうのこの日の蝮捕り――
渡りあるきの生業《なりはい》の昨日《きのう》の疲れ
明日《あす》の首尾
[#ここで字下げ終わり]
 と白秋が去りにし日の「蝮捕り」を誦《よ》みつつ、都家歌六の高座を偲べば、こころ、何か、何かあやしく、※[#歌記号、1−3−28]坊主だまして[#「して」に傍点]げん俗させて[#「させて」に傍点]こはだの鮨でも売らせたい――とこんな小唄の必ず思いだされてくるのも可笑《おか》しい。

     昼席

 ――昼席ほど、しみじみ市井にいる心もちを、なつかしく身にしみ渡らせるものはない。
 そういっても、震災前の旧東京には、まだ昼席にふさわしい、旧《ふる》びた木づくりと、ちょっと小意気で古風な庭とをもったいろもの[#「いろもの」に傍点]の寄席があった。――新石町の立花なんぞは、そういっても、夜席より、昼間がよかった。あのだだ長く薄暗い寄席の片すみ、万惣《まんそう》の果物をかぞえる声が、荷揚げの唄のように何ともいえず、哀しくひびいてくるのを背にしながら、守宮《やもり》のように板戸に倚《よ》りかかって聞いている時、いつも世の中は、時雨ふる日の、さびしく、つつましい曇天だった――。冬の日の独演会の四席めには、そぞろ、高座が暗くなって、故人圓蔵のうら長い顔が、みいら[#「みいら」に傍点]のように黒くなった。私は、ひとしお、ひしと火桶を身に引き寄せては「野瀬の黒札、寄席の引き札、湯やの半札」と、可笑しき「安産」のとりあげ婆が、果てしなき札づくしを、そんな時、何にも換えがたく聞き入るのだった。そういえば、研究会の創立十六年記念演芸会(その時の番組はまだ手元にある! 大正九年四月の第四日曜で、圓蔵の「百人坊主」に山帰来《さんきらい》の実が紅かった。小圓朝がほんとの盲かと思われるほど、さびしい「心眼」を一席談じた。小さん(柳家・三代目は「小言幸兵衛」だった)をやったのも立花なら、先代助次郎の追善もまれに大阪から圓馬が来ても。――今の馬楽の独演会は決まって、第一日曜で、いつも二十人そこそこの人が、馬楽と一緒に寂しかった!。
 両国の立花家は、昼席に川蒸気の笛が烈しく聞こえた。永井荷風の著作を手にした、黒襟の美しい女たちが、どうかすると桟敷に来ていた。――はばかりへ立つ通りみちに、禿げちょろけた鏡が懸かって、「一奴、紋弥、小南」などと、当時でさえもすでに古びた、金字で芸名が書かれてあった。一奴[#「一奴」に傍点]は、今、大阪にいる立花家|花橘《かきつ》。あれも私は、忘れかねる(ついでに言うが、路地を踏んでゆく寄席の味は、まずこの両国の立花だった。それから浅草の並木だった。ことに、雨でもふると、それがよかった。――昼席の記憶は、自分にはないが、二洲の高座もあやしく美しい思い出である。拓榴《ざくろ》口みたいにかかれた牡丹! がらんと空いていて青い瓦斯の灯、表を流しがよく通った)。
 薬師の宮松には落語研究会が、しょっちゅう[#「しょっちゅう」に傍点]あった。そこの盆の十六日に、ぎっちり詰まった二階から、仰いだ広重の空の色も、私は今に忘れられない。――宮松の庭には、拓榴があった、そうして、その頃、花が開いた。――大阪から笑福亭松鶴(四代目)がきて「植木屋の娘」というのをやった。小さんが「猫久」を「お前の魂を拝んでるんだ」より、あとを続けて、しかし一向につまらなかった。いやそれよりも、圓蔵が昔噺は「夏の医者」で、麦わら大蛇の可笑しさよ!
 ――ほんとうに、昼席の、やるせない薄ら明かりほど、夏といわず、秋といわず、冬といわず、しみじみと都会の哀しみを知らせてくれるものはない。
 震後絶えて久しき昼席を、それでも、今年辺りからまたぽつぽつと始めたらしい。つい、この間も人形町の末広で、燕路《えんじ》の会というのがあった。「白木屋」や「山崎屋」や物真似や、梅にも春の芸者二十四刻の踊りを、まだ若い燕路(柳亭・四代目)は器用にやった。葭町の美しい人たちが、花のようにいっぱい集まって、私は久方で昼席のしじまのよさに涙ぐんだ。――と、相次いで立花に「稽古会」なるものが起こされると、私は、あすこのあるじから耳にした。――こうして昼席が相次いで起こってゆくのは、また、一つ、都会によきものの[#「もの
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