》てられた人と相対しているようでひとり涙ぐまずにはいられない。

     桝踊り

 もう、何年になることか?
 桝踊りというものが寄席に出ていた。
 春風亭柳仙という小づくりな年よりの男で、かなり、大きな桝を七つ、高座の真ん中へつみあげては、多彩な着つけで現れて、ひょいと身がるにてっぺんへ飛び上がると、※[#歌記号、1−3−28]一本めには池の松 と、ふところから限りなき扇子をだしては、「松づくし」のひと手を踊った。
 それから、もう一度、どろどろ[#「どろどろ」に傍点]で姿をかくして、今度は写し絵の口上にあるような、大きなでこでこ[#「でこでこ」に傍点]の福助になる。そして牡丹の花の開くように、あやしくいぶかしく踊りぬいた。
 なんのただ、それだけの、いわれさえなきいろもの[#「いろもの」に傍点]ではあったけれど、「五変化」「七変化」などという、江戸の所作事を見るように、何か、我ら、少年の日の胸ときめかせたものであった。
 それにしてもあの柳仙。
 この世を去ってしまってから、もう何年になることか?
 いや、それよりも残されていった七つの桝は、今頃どこで、昔の主人を憶っているか?
 桝踊りは、美しいいろもの[#「いろもの」に傍点]だった。

     橘之助

 この頃になってしみじみ橘之助を思い返す。もう東京では人気もあるまいが、しかしあれだけの芸人はいない。――ことに、阿蘭陀《オランダ》甚句の得わかぬ文句。テリガラフや築地の居留地や川蒸気などそんな時代の大津絵や。
 それからこどもがいやいや[#「いやいや」に傍点]三味線を引っかかえてお稽古をする、あれなんぞは、どう考えても至上である。――仄かな瓦斯灯からぬけだしてきたような、あの明治一代の女芸人。だが惜しいとまこと[#「まこと」に傍点]思う頃にはこれまた東京の人でない。

     都家歌六

 私の好きな音曲師に都家|歌六《うたろく》なる人がある。あの哀しげにいろ[#「いろ」に傍点]の黒い、自棄のように背の高い、それから決して美声でない美声[#「美声でない美声」に傍点]とは、珍重するに足ると思う。前の日のまた前の日で、あやしく燃えつきた蝋燭のような、変に侘びしい歌六の高座よ!
 まったく今の寄席へ行って、一番ひしひし[#「ひしひし」に傍点]感じることは、明日の時代に待たるべき音曲師の皆無!なことだ。やなぎ改め江戸家はじめなどという、大道で猿股くらいしか売れそうにない、くだらない手合から決して寄席音曲のよき発達のみられよう訳がない、あんな普通のいい声[#「普通のいい声」に傍点](ということはたびたび繰り返すところだが、寄席音曲、第一の最大条件としてよき悪声[#「よき悪声」に傍点]でなければならぬから)で、そのくせべら棒に名人がっていかにも巧かろうといりもしないところでそっくり返ったりしてみせて、余徳はせいぜいチクオンキの製造所を儲けさせるくらいの功績で、なんの高座の音曲師なる名称が投げてやれようか。
 初代三好の卑しくも美しき高座、万橘《まんきつ》の、あの狐憑きの気ちがい花のように狂喜|哄笑《こうしょう》するところ。「八笑人」のなかのひとりがぬけだしたかと思われる鯉《り》かんが鶯茶の羽織。――
 都家歌六もそういうなか[#「なか」に傍点]のわずかに残った、ほんとうの寄席の音曲師だ! 春風亭楓枝[#「春風亭楓枝」に傍点]のみぎりには、「宇治中納言」なる噺をしばしば私は聞かされた。中納言が落語の鼻祖で、日々、家臣をあつめて聞かせる。「あるところに山があったと思え、そこから川があったと思え、そこで白酒を売っていたと思え、これで山川白酒[#「山川白酒」に傍点]とはどうじゃ。おかしいか」というと一同「げにおかしき次第と存じ上げます」殿様「しからば次へ下がって、苦しゅうない一同笑え」――そこで次の間で声を揃えて、「あははのはあ」と頓驚《とんきょう》な笑いで落《サゲ》になる。それから「箱根の関所」をやった。「あらとござい[#「あらとござい」に傍点]」という声の、今も忘れ得ぬ妙なおかしさ――。
 ※[#歌記号、1−3−28]東京の名所を知らないお方――を歌うと三代広重の開化三十六景が古びたおるごうるとともに展開され、※[#歌記号、1−3−28]ありがたいぞえ成田の不動――とありがた[#「ありがた」に傍点]節には愚昧でそぞろ哀れの深い、そのかみの東京人の安らかな生活の挽唄がある。※[#歌記号、1−3−28]高い山から――を踊ると鳴り物入らずの仕方たくさんで、阿蘭陀渡来の唐人踊りは※[#歌記号、1−3−28]さっさ唐でもよいわいな――と安政版の時花唄《はやりうた》を思わせる。あの時歌六の両の手が楽屋の鉦の音につれて棒のようになるのもいい。――改良剣舞源氏節で※[#歌記号、1−3−28]
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