随筆 寄席風俗
正岡容
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)用《つか》った
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)都家|歌六《うたろく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1−3−28]
−−
わが寄席随筆
大正末年の寄席
百面相
かの寺門静軒が『江戸繁昌記』の「寄席」の章をひもとくと、そこに「百まなこ」という言葉がある。「百まなこ」とは柳丸がよく用《つか》った花見の目かづらのようなものだが、これが「百面相」を生んだ母胎だろう。そうして百面相自身も天保の昔には、わずかに瞳と眉と、顔半分の変化をもって、あるいは男、あるいは女、あるいは老える、あるいは稚きと、実にデリケートにさまざまの千姿万態を、ごらんに入れた演技だったにちがいない。だがなるほど、この方がほんとうだ! 魂の問題からいってもずっとほんとうで芸術的だ!
それが春信や栄之の淡い浮世絵は、ついに時代とともに朱の卑しき五渡亭が錦絵となったがごとく、後年眉を彩り、衣装をまとい、惜しみなく顔と五体を粉飾しつくして、やれ由良之助だ! 舌切雀だ! そうしてステッセル将軍だ! と、ずいぶん、お子供衆のおなぐさみにまで、推移していったものらしい。
しかし、考えると、かえって当初のものの方が、よほどほんとうの嘘のない文明精神の発露であったような気もされる。そうして、世の常の文明なるものも、みんな、このたぐいの、実は進歩だか、退歩だか、まったくもってわからない、いや、進歩でもあり、退歩でもあるもののような気もせずにはいられない……。
――ところで、近世の百面相では、なんといっても、先代の松柳亭鶴枝《しょうりゅうていかくし》だった。あのてかてか[#「てかてか」に傍点]にあたまの禿げた、福々しい顔つきの鶴枝はまったく、覚えての上手だった。少し病的だと気になるくらい声がしわがれていた。――一番巧いのはなんといっても、ステッセル将軍だった。それから青い服を着た露助が、撃沈された軍艦で、手をあげて救いを求めている、その絵画的に巧みなポーズも私は今に忘れられない。桃太郎の誕生場をやると、仲見世の何とかいう、今の天勇のもう一つ向こうの通りの勧工場に、永らくかざられてあった活《いき》人形にそっくりだった。まったくあれの再来かと疑われた。それからぴか一の景物は、なんといっても蛸! である。桃色の手拭いであたまをつつんで、それから豆絞りの鉢巻きをして、すててこにあわせて踊る蛸入道は、涙ぐましき見ものであった。今の鶴枝もやるけれど、これだけは、到底、ものがちがう。段がちがう。今の鶴枝のでは、ことに、手のふるわせ具合がはなはだ幼稚でお座がさめる。――だが、あの好々爺の先《せん》の鶴枝がついには気が狂って死んだかと思うと、私は今も耳にのこる、あの一番芸の終わるたびに、なんと思いきりよくぱちんぱちんと叩いてみせた鶴枝のあたまの音さえも、そぞろ無気味にどこからか聞こえてきてならない。
鶴輔からなった今の鶴枝も、しかし、けっして愚昧《ぐまい》でもない。第一、楽に時代と一緒に歩いているところに、先代同様の怜悧《れいり》を感じる。この頃、高座中真っ暗にして紅青いろいろの花火を焚いたりすることも、ますます百まなこ精神からは邪道なわけだが、凝ってあたわざりし思案だとも思えない。この男のでは、仁丹の広告が、時代的で妙に好きだ! 兵隊さんの行軍も先代のそれとちがって、もはや新世紀のカーキ色なることが大正味感が感じられていい。近頃、さらにその行軍から想いついて、マラソン競走を同じ段どりでみせている。まだ兵隊ほどこなれないが、いだてん[#「いだてん」に傍点]の合方をひかせてやるのなど、いよいよ大正風景で愉快である。なんとも奇妙千万なのは、扇面で顔をかくして、いやらしい蝸牛《かたつむり》の顔つきを見せるのがある。あれは北斎漫画でも見ているようにもの[#「もの」に傍点]あやしい。
だが総じて百面相は下座で、旧時代な楽隊の合方なんぞを思いもかけず、ひきだしてくれたりする時が明治情調で一番私は愉悦をおぼえる。
ただ一つ、ここに特記しておきたいのは福圓遊だ。あの男の百面相ほど、まずい、智恵のない、しかし好感のものはない。瓜生岩子の銅像や、喇叭《ラッパ》ぶし高らかに村長さんの吉原見物や、みんな今は時代とあまりにも縁なき衆生! の風物詩ばかりを、飽きずにいつもとことこ[#「とことこ」に傍点]とやっている、身装のほどもお粗末で、だが、気をつけて見てやるがいい。世の中に福圓遊の百面相ほど、たまらなくやるせないものはない。私はいつも世の中から棄《す
次へ
全13ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング