れから死んでいったのだ)。
私が、やまとを聞いては感心していたのは、されば、まだ、文楽の時分だった。――勝栗のように頭が禿《は》げて、声が江戸前に渋く嗄《か》れて、鼻唄ひとつが千両だった。江戸もん[#「もん」に傍点]同士がひどく気さくで、御代は太平|五風十雨《ごふうじゅうう》で、なんともいえず、嬉しかった。私は、「俳諧亭句楽」の中の蛇の茂兵衛という小唄師をさえ、よく、彼を聞けば、考えさせられた。
だが、それならば、私はそんなにしげしげ彼を聞いたかといえば、そうじゃない。うちに隠れては昼席入りをしていた、少年の日のどんたく[#「どんたく」に傍点]に、あるいは、庭のかなしくなつかしかった暮春の若竹で、あるいは、瓦斯の灯のよるべなく青い、どこか、もう忘れてしまった町の夜席で、――そんなところで数えるほど、それも決まって「三人旅」の「とろろん」だった。同じ話を数えるほど。ただ、その「数えるほど」でありながら、なぜかそれが死ぬほど、私には愛好された。文楽は、ぼくの大好きだった品川の圓蔵(橘家・四代目)以上に、めずらしい、軽い、日傘のような、噺家ぶりであるよ! とさえ想われたのである。
こういうことは、すこし、寄席入りに浮身をやつしている人ならかつて訪れた城下町の記憶を見るように、たいていがもっている心持ちだろう。現に、昔読んだ孤蝶さんの随筆では、禽語楼小さん(二代目)のことだか、圓喬のことだか、もう、今の私には記憶がうすいが、とにかくある名人の追憶に「しかし自分はこの男をわずか五、六度、しかも同じ仇討の話を、とびとびに聞いた限りだ」という風のことが書いてあった。それだけの記憶で、しかも馬場さんは、その男を、りっぱな芸だと、世にもはっきり讃《ほ》めていた。私のやまと、またしかりだ。
やまとは「富士詣」などという、やはり、江戸人の軽い旅情を扱かった噺も巧かったというが、前、言う通り「とろろん」だけの私には、なんともいい得ようはずがない。
「とろろん」のまくらで誰もがやるが、火の見櫓へよびかけて訊くところがある。「火事は、どこだーい」と訊いて「吉原」というとすぐに駆け出し、「葛西砂むら」と返事があると「寝ちまえー」と怒鳴る。あすこがいかにもめもけ[#「めもけ」に傍点]に高い夜の櫓を想わせた。あの火事のまくらは圓右より私には巧かったように考えられる。
話へ入ってからは、例の鶴屋善兵衛を探すくだりだ。あすこを、やまと(当時、文楽)は、どどいつでやる。※[#歌記号、1−3−28]三人揃って歩いちゃいれど、今夜の泊まりは――ここで、ぐいと調子をあげて、八方へ聞えるように「鶴や善兵衛」と言うんだぞと、兄貴が教える。いい声だ。心得て、やる。ところが歌う本人は※[#歌記号、1−3−28]三人揃って歩いちゃいれど、どこが鶴屋だかわからない[#「どこが鶴屋だかわからない」に傍点]――ここんところがひどくよかった。――その前にまだ、みんなの無筆が表れないで、一人が実は鶴屋の看板の読めないことを白状する。兄貴がさんざん啖呵《たんか》をきる。「べら棒め、けえったら学校へゆけ……――」(この学校という言葉にも彼から聞く時、開化! があった)。相手は恐れ入って「じゃあ、兄ィ、読んでくんねえ」と言う。と「俺も読めない」。相手がまた言う。「じゃあ、東京へけえったら二人で学校へゆこう」云々。
この「二人で学校へ」も、なんともいえず、おかしくもあり嬉しくもあった。もちろん「とろろん」は圓右もやった。箱根山は山師がこしれえたかときく弥太っ平の馬楽。湯へさかさまに入ると下げる故人小せん。先の品川の圓蔵のも聴いたし、※[#歌記号、1−3−28]たまたま逢うのに東が白む、日の出に日延べがしてみたい――と渋い調子でこう諷う。志ん生も巧い。若いところで甲の強い馬に乗るのを圓楽もやる。お灯明の今の馬楽、「朝蠅」の正蔵。
だが、つまるところ、いくたびか聴かされたこの文楽の「とろろん」が一番よかった。一番、近代味が無是候。そうして一番旅だった。江戸人の旅のこころだった。まこと、「三人旅」の情懐を一番よく知っていたのは、この文楽のやまとではなかったろうかと思っている。
そのやまとが、ついに高座に影をしまったのだ。私としていかんともいっぺんの感懐なき能わず。泣いてやってもよかろうと思う。
今夜あたり、高座でも沸る鉄瓶の白い煙が、人知れず嗚咽しているこったろう。南無桂才賀頓生菩薩!
百面相異聞
湊家小亀といえば、暮春の空に凌雲閣の赤煉瓦、燦爛《さんらん》と映えたりし頃、関東節と「累身《しじみ》売り」の新内をいや光る金歯の奥に諷い、浅草のあけくれに一時はさわがれし太神楽の、そののち睦派の寄席にも現れ、そこばくの人気を得しも、一人舞台の熱演にすぎ、あれはばち[#「ばち」
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