破した軽気球か? と私はいつも疑いさえする。――まったくあれがしんしょう[#「しんしょう」に傍点]である――。「ずっこけ」で彼が諷うよしこの[#「よしこの」に傍点]には、
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※[#歌記号、1−3−28]火事があるから出てみてごらん
 遠けりゃ戸をしめて――
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 ここで一調子、奇妙にあがって、
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お寝よ、ふわっ、ふわっ!
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 と言うのすらある。最もむらくに風格的な歌だといってよかろう。
 しかし、どこから、何から、いったいはじめにああいう「ふ、ふあ、ふあ、ふあーーっ」といったようなことを言い始める了見になったのだろう? この私がいっぺんむらくにとっくりと膝を抱いて聞いてみたいところのものである――(作者註――このむらくのち発狂して死す)。

     君見ずや「かっきょの釜掘り」

 ※[#歌記号、1−3−28]圓遊すててこ、談志の釜掘り、遊三《ゆうざ》のよかちょろ、市馬《いちば》の牡丹餅――今もこういう寄席の竹枝《こうた》が、時おり、児童《こども》の唇《くち》にのぼる。※[#歌記号、1−3−28]かっきょの釜掘り、てけれっつのぱあ――は、その先々代立川談志(私は、元より不知。風貌、聞くならく、桂小南に似たりという)の専売だったという。――すると、談志の創作なのか、それ以前にもあったのか、師、吉井勇の話によると、鼻の圓遊もやったそうだ。――今では、東西にたった二人、初代橘家三好(今の三代目圓好)と、大阪にいる橘家小圓太だけだ。
 しかし世の中にあんな痛快で得体がしれず、意味が紛花《こか》で、振りがでたらめで、節廻しと太鼓が悲哀の極みで、あやしく美しく所以《ゆえん》なく哀しく、あとからあとから泪のこみあげてくる踊りはない。――あれは、我が寄席がもつ、一番文明の踊りだと言ったってかまわない。
 圓好のと小圓太のとは、全然、もってゆき方がちがって、もちろん、圓好の開化な味に比すべくもないが、ムードは両方ともおもしろい。
 ――私は、まず、あの文句が好きだ、ちっとも意味のなさすぎる文句が!
 まず蒲団を畳んで子供のようにしっか[#「しっか」に傍点]とかかえる。鉢巻きをして、扇子を頭へさしかける(小圓太は支那人の意でさらに羽織を裏返しに着る。そしてあと[#「あと」に傍点]のすててこのとこ
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