の」に傍点]哀れが加わるだけでも、ほんとうにいいことだと想われる。
 しかし、くれぐれも昼席は、四季を通してほのかに曇った午後でありたい。あんまりギラギラとしたお天気の時ではことに夏など、寄席を出てからやるせなさすぎる! 昼席は、そこでお天気がよかったら、
「今日あまり、晴天につき、残念ながら、休席!」
 ということにしたら、どうだ※[#感嘆符三つ、76−5] 呵々。

     むらく

 朝寝房むらくは柳昇である。毛筆で描いた、明治の文学冊子における、小川未明氏[#「小川未明氏」に傍点]が肖像の如き、坊主頭の今のむらくは、つい、先の日の柳昇である。――私は、この人を、今の東京の噺家の中で、それも老人大家たちの中で、かなり、高きに買っている。得がたき人だと思っている。
 今の世の、さても客べら棒は、むらくが出ると「酔っぱらい」とのみ注文するし、当人も、近頃人気のなくなったせいか[#「せいか」に傍点]、たいてい「酔っぱらい」ばかりでごまかしては下りてゆくが、その「酔っぱらい」にしても! だ。あの調子っ外れで、いやにはにかみ屋で、妙にきちんと両手を膝にのせて、諷《うた》う時決まって不自然に右手を高くあげたやぞう[#「やぞう」に傍点]をこしらえて――といったような段どりよろしく諷い始める、めちゃめちゃに文句の錯乱した「梅にも春」や「かっぽれ」は、聞きこめばこむほどいいものである。――「くやみ」で、あるいはラジウムを説き、あるいは野菜ものの相場に至り、女房ののろけ[#「のろけ」に傍点]を言って帰ってゆく、そのとりどりの嘘でない可笑しさ!
「輜重輸卒《しじゅうりんそつ》[#「輜重輸卒《しじゅうりんそつ》」はママ]」で、あの「ふ、ふ、ふあーっ」と世にも奇矯な声を随所に張りあげて、「電信柱に花が咲く」を朗々誦めば、
[#ここから2字下げ]
紅い夕日の照る阪で
我れと泣くよな喇叭《ラッパ》ぶし――
[#ここで字下げ終わり]
 と白秋の陶酔したかつての日の東京さえが、深紅にまざまざと映像する?
 が、何といっても、むらくの一番ありがたいのは、あの「ふ、ふ、ふ、ふあーっ」と、会話のなかで与太郎や生酔が随所に突拍子もなく叫ぶあの味である。「ふ、ふ、ふ、ふ、ふあーっ」と声を張り上げていって、あげくに、「ぎゅっ」といったような、まるで、卵を踏みつぶしたような音響をさせるあの味である。――爆
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