された嬉しさ。
「エ、今夜やって頂け……」
 目のいろ変えて小圓太はお辞儀をした。
「やって上げますよ。いつ迄噺ひとつ稽古しないで遊ばせといたって仕様がありません。正直お前さんだって早く席へでたくってウズウズしていなさるんだろう。ウムウム分って、分ってますよ、サ、この稽古ひとつ丸ごかしにすましたらちゃんと席へでられるようにして上げましょうね」
 今夜も上機嫌の師匠だった。ふた晩つづいてこんな御機嫌なんてほんとに珍しいことだった。ほんとうに小圓太は嬉しかった。
 すぐ晩酌がすみ、御飯がすみ、手早く膳を片づけて、昨夜のようにピタリ向こう前に坐ったとき、また玄関のほうから声高に案内を乞う声が聞こえてきた。
「お、おい三遊亭。ご、御馳走になりっ放しじゃこん[#「こん」に傍点]心持が悪いから、こ、今夜は、お、俺が、一升提げて、きたぜ」
 もう下地があるらしくいいいろ[#「いろ」に傍点]に顔を染めた昨夜の杉大門が一升徳利ぶら下げて、なんと案内も乞わずにフラフラと入ってきた。
「よッ待ってました親玉。よき敵|御参《ごさん》なれとおいでなすったね」
 またしてもおよそ調子のいい師匠はこう笑顔で迎えた。すぐまた酒盛がはじまってしまった。酔えば酒飲みの常、いつ迄もいつ迄もお互いにひとつことを繰り返しては根気よくさしつさされつ――トド杉大門はへべのれけになって小間物店まで吐きだした。命じられて小圓太がその後始末をさせられ、その上、駕籠を呼びにやられた。その駕籠がまたなかなかやってこないときた。ピューピュー筑波ならしの吹く寂しい四谷の大通りに佇《た》っていて、小圓太はつくづく杉大門の主を怨みにおもった。何かこの人、前世で俺に怨みがあったのかしら、それともうちの先祖があの人の先祖を絞め殺したことでもあるのかしら。人の恋路の邪魔する奴は馬に蹴られて死ねばいいという都々逸があるけれど、俺の世の中へでるのを邪魔する杉大門も土竜《もぐら》にでも蹴られて死んじまえばいい。それにつけても今夜はちょいとこれ[#「これ」に傍点]の稽古をすませますから、ほんの少しそこで待ってて下さいとひと言そういってくれないですぐニコニコ大愛嬌でお客様を迎えてしまううちの師匠の上も、いささか怨めしくおもわないわけにはゆかなかった。
 ……ブツクサ呟いていることしばし、やっとのことで駕籠がきた。いっしょに家まできてもらって、てんで[#「てんで」に傍点]正体のない杉大門をかかえ込むようにして駕籠へ乗せ、そのあとお膳の片づけをして、やっと表の戸締まりをしにきた。
 師走の空がよく晴れて、青い星がいっぱいチカチカまたたいていた。しきりにすさまじく凩《こがらし》が軒端を吹き抜け、通りのほうで犬が二、三匹遠吠えしていた。師匠の鼾がここまで絶え絶えに聞こえてきていた。
 顔中を粒々に鳥肌立たせた小圓太は、土より冷たく凍てかえってしまった手で、やがて表の戸を閉めようとした。ちぢかんで、どうしてもおもうように閉まらなかった。


     五

 お正月の下席から思いがけなく小圓太は、文楽師匠から赤坂一つ木の宮志多亭へ借りられた。もちろん、前座としてであるが、それでも何でも嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。骨身を惜しまず立ち働いた。
 ただ毎晩、高座でやる噺に自信がなくてたいへん困った。というのはあれから暮れの三十日の日、たったいっぺんだけ師匠は「蛙の牡丹餅」の稽古をしてくれた。が、小僧がお重の中の牡丹餅を食べてしまって、代りに入れておいた蛙の飛びだす眼目のところがどうしても巧くできなかった。活きていない、その蛙は――そういっては何べんも何べんもやり直させられた。でもどうしても師匠の満足するまでにはできずじまいだった。しかも、いわば本格の稽古らしい稽古といえばただそれ一回っきり。あとは父圓太郎といっしょにでている時分の聞き覚えのものに過ぎなかった。
 でもこの機会を失ったらまたいつだして貰えるか分らない。面を冠って小圓太はでることにした。
 いってみると自分の上がる時刻には、まだお客は五つか六つ――せいぜい十くらいしかいなかった。いいも悪いもありはしなかった。ただその十人いるかいないかのお客が、必ず下りるときには一斉に手を叩いてくれ、一人でも叩かなかった人のいる晩はなかった。せめてもそれだけが小圓太にとっては百万力の味方を得たもののようだった。
「お前、しっかりやりさえしたら、末があるってみんないってるぜ、俺はほか[#「ほか」に傍点]をやってくるからまだ聴いてねえんだが、まあしっかりやんねえ」
 ある晩、文楽師匠がこういって励ましてくれた。
「ハ、ハイしっかり勉強いたします、何分……」
 思いがけない嬉しさに、情に脆い小圓太はもう鼻をつまらせていた。黙って何べんも何べんも頭ばかり下げていた。
 だんだん小圓太に文楽師匠という存在が、師匠圓生の次にありがたくてならない人におもわれてきた。いつも粋な唐桟《とうざん》ぞっきで高座へ上がる文楽師匠は頬の剃りあと青い嫌味のない色白の江戸っ子で、まだ年はうちの師匠より十も下だろうが、いまが人気の出盛りで、それには下の者へよく目をかけてやるというので滅法楽屋の評判がよかった。噺もまた巧く、「一心太助」だの「祐天吉松」だの講釈種のそれも己の了見そっくりの達引《たてひき》の強い江戸っ子を主人公とした人情噺がことに巧かった。ほんとうに太助や吉松はこんな人物かとおもわせるほどだった。何よりそれには「噺」の線が江戸前で、藍微塵のようなスッキリとしたものを目に描かせた。そのあく[#「あく」に傍点]抜けのした話し口に小圓太は心を魅かれた。
「困ったなおい、俺はこれから西の窪の大黒亭まで行かなけりゃならねえ、もうこれ以上つなげねえんだ」
 ある晩さんざ[#「さんざ」に傍点]つないで下りてきた鯉《り》かんさんがいった。事実「両国八景」を目一杯にやって、そのあと声《こわ》いろまでやって下りてきたこの人だった。俎板のようなぶ厚い顔へとりわけ今夜は寒というのにビッショリ汗を掻いていた。
「すみません。ですけど師匠、まだあと[#「あと」に傍点]が……」
 困ったように小圓太は俎板のような顔を見上げた。
「分ってるそりゃ分ってるが、こなくても俺はもうこれ以上かかり合っちゃいられねえんだ俺は。こっちはもう仁義だけは尽したつもりだ」
 鯉かんさんはいった。まさしくその通りだった。
「そりゃもうよく」
 小圓太はひとつお辞儀をした。
「じゃ、くどくもいうとおり西の窪の大黒亭へ駈け上がりなんだ」
 駈け上がりとは時間ギリギリに楽屋へ入ってすぐそのまま一服もせず、高座へ駈け上がっていくの謂《いわれ》だった。
「じゃ頼むよ後」
 そのまま慌ただしく行こうとした。
「ア、モシ師匠」
 あわてて小圓太は花いろの道行の袖を捉えた。
「な、何だ」
 立ちのまま鯉かんさんは振り返った。
「困ります師匠に行かれちゃ」
 泣き声をだして小圓太は引き止めた。
「俺も困るよ、お前に留められちゃ」
「お願いしますだから」
「こっちがお願いするといってるじゃねえか最前《さっき》から」
 困って俎板面をしかめたが、
「ア、いいことがあら」
 急に安心したように肯いて、
「上がんねえ」
「エ、上がんねえよ高座へ」
「誰がです」
「お前がだよ」
「冗、冗……」
「ほんとだよ」
「だ、だって、そ、そんな冗……」
「上がりなってば、いいから。そのためのお前、イザってときのとっとき[#「とっとき」に傍点]にしておく前座じゃねえか」
「でも私はもう宵に」
 その宵も、あと[#「あと」に傍点]のしんこ細工の蝶丸さんがこないで二席がけたっぷり[#「たっぷり」に傍点]とやってしまった自分だった。
「いいや上がったっていい。何べんでも上がりねえな。何、遠慮があるものか、お前の噺は末があるんだ。俺見込んでこねえだ[#「こねえだ」に傍点]文楽さんにそういっといてやったくれえなんだ」
 ア、この人がいって下すったのか――。
「ありがとうございます」
 傍らの大太鼓へ危うくお額《でこ》をぶつけてしまうほどのお辞儀をすると小圓太は、さすがに嬉しさに胸ときめかせて、
「じゃ、上がります」
「オオ上がれ上がれ。上がりねえとも。いいシホだからこういう深えとこで充分腕を磨きねえよ。その時分にゃ誰か届かあ。じゃ文楽師匠によろしく、な」
 そのまんまプーイと鯉かんはとびだしていった。「ウー寒い寒い」という声がすぐ表で聞こえてやがて凍ったような下駄の音ばかりが次第に遠のいていった。
「……」
 身ずまいを正して小圓太はいよいよ上がることにした。上がる前に楽屋格子の透き間からソッと客席のほうをうかがってみた。下席とはいえ、新春《はる》のことでギッチリといっぱいに詰めかけている。
 こんないっぱいのお客の前で喋るなんて子供の時分のとき以来だ。何だか胸がワクワクしてきた。ゴクッと生唾を飲み下した。それから誰にともなく両手を合わせた。やがて思い切って板戸へ手を掛け、スーッと引いた、はずがガタガタガタンと至って不器用に大きな音を立ててしまった。新米の泥棒が物にけつまずいたときのよう、たちまちハッと小圓太はまごついてしきりに動悸を早くさせながら世にもオズオズしたかっこうで、宵にいっぺん上がった高座へ、ソーッとまた上がっていきかけた。
「……」
 そのとたんだった、何だか分らない破れッ返るような大きな声を背後に聞いた、と思う間にムズと誰かに襟っ首を掴まえられてズルズルズルと楽屋まで引き摺り下ろされてきた、絶えずその間も口汚く罵《ののし》られながら。
「……」
 やっとその手を放されたとき、ボンヤリ顔を見上げると、宮志多亭の御隠居だった。よっぽど腹を立てているのだろう、着ている革羽織がカサカサ音立てて慄えていた。頭《かしら》の上がりで木やり上手として知られているこの御隠居はまた、雷親爺と仇名された喧《やか》まし屋として文字通りの雷名を仲間うちに轟かせていた。しかもいまやその雷が黒雲踏み外して、真っ逆様にガラガラ下界へ落っこちてきたのだった。
「いい加減にしろイ、大馬鹿野郎」
 目と目があうとすぐいった、ガクガク入れ歯を噛み鳴らしながら。
「……」
 何が何だか分らなくて小圓太はちぢこまった。
「二度……二度上がる奴があるか、手前みてえなセコチョロ[#「セコチョロ」に傍点]が」
 セコとは芸人仲間の符喋で、「まずい」「つまらない」という意味だった。
「な、何だって……何だってヤイ上がりやがるんだ、それもこんな深いところへ何だってオイ上がるんだよ」
 そこらをこづき[#「こづき」に傍点]廻さないばかり笠にかかってきめ付けてきた。
「あいすみません、あとにまだ誰も参りませんし、鯉かんさんがお前上がれとおっしゃったもんで」
 やっと自分の叱られているわけが分って、にわかにオドオド小圓太はいった。
「べ、べら棒め、鯉かんが上がれっていったって」
 よけい破れっ返るような声をだして、
「つもってもみろ、手前にこんなところへ上がられたらせっかく入ってるお客様が皆ずらかっちまわあ。明日ッからこの宮志多亭はな、屋根へぺんぺん草を生やさなけりゃならねえや、このはっつけ[#「はっつけ」に傍点]野郎」
「すみませんごめん下さい」
 もういっぺんまたオドオドと詫びた。
「閉めとけ御簾《みす》を。いつ迄でもあと[#「あと」に傍点]のくるまで閉めッ放しにしておけ」
 さらに憎さげに隠居はいい放って、
「お前《め》っちが上がるよりゃア御簾のほうがよっぽどまし[#「まし」に傍点]だ」
 そのまんまドタドタドタと木戸のほうへと足音荒くいってしまった。
 その晩――いい塩梅に間もなく常磐津を語る枝女子という若いおんなが入ってきてくれ、そのあと早目に文楽師匠が入ったので高座は大した穴も開かずにすんだが、中橋に住んでいる文楽師匠の駕籠を見送ったのち小圓太は、いつ迄もいつ迄も細い路次の入口に掲げられた宮志多亭の招き行燈を、ジッと目に涙をいっぱいたたえて睨んでいた。「桂文楽」一枚看板の灯はとうに消されていたが、ひどい空
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