けになって崩れていた。黄ばんだ膿にまじって痛ましく血さえ滲んでいた。
 これが、これが、いのちがけでなった落語家さんの手だろうか。
 しみじみといま小圓太は自分が、いや自分の「掌」がいとしくなった。いとおしくなった。もし取り外しができるものならその「掌」をやわらかい真綿か何かへシッカリと包《くる》んで、寝ン寝ンよおころりよ[#「おころりよ」に傍点]と子守唄歌いながら毎晩抱きしめて添い寝してやりたかった。
 いつか不覚の涙が、キラキラ青い竹箒の柄をつたって午後の日にかがやいていた。
 止めようかしら俺、もう落語家を。
 思わず小声で呟いてギョッと辺りを見廻した。


     三

 待て――とそのとき心に叫ぶものがあったからだった。
 低いけれど、妙に振り切ってしまえなくなる底力のある声ならぬ声だったのだ。
 不思議にその声は小圓太の「心」をシッカリと捉えて放そうとしなかった。
 何と説明したらいいだろうこの声この感情――強いていおうなら、好きで好きでならない恋びとと意地で別れてしまおうとするとき、傍からその決心を鈍らせてくるあの未練に似ていた、もちろん十六になったばかりの小圓太、恋の心理はまだ体験していようわけがなかったけれど。いずれにもせよ、声は、次のように呼びかけてきたのだ。
 ……おい小圓太、いいのか、それで。
 ……それでお前、いいっていうのか。今日様《こんにちさま》にすむっていうのか。
 ……おい聞かせてくれ、返事を。ええ、おい、聞かせろってばよウ、その返事を。
 ……おい小圓太、おい、ほんとにお前冗談じゃない、少しは落ち着いて胸に手を当ててよくよウく考えてみろよ、ほんとにお前あの辛かった日のことをおもわないのか、日暮里の寺の、根津の石屋の、池の端の両替屋の、黒門町の八百屋の、練塀小路の魚屋の、そうしてとうとう血を吐いてしまった国芳の家でのあの修業を……そのどの店にいたときも夜の枕を濡らしてまで恋いて焦れて、ようやくなれたこの天にも地にも掛替のない落語家稼業じゃないか。
 ……一体、その日といまと比べてみたら、どっちがいいんだ。
 ……考えて、よく胸へ手を当てて考えてみてくれ。
 ……まさか、もういっぺんあのお寺へ、石屋へ、両替屋へ、八百屋や、魚屋へ、かえりたいとはいわないだろう。
 ……だとしたら……だとしたら……いまのこの辛さくらい、何がどうだというんだおい、お前。
 ……返事をしろ、ハッキリとオイ返事をしてくれ。
「ウーム」と、ここにおいてようやく小圓太の「心」がまいってしまった。
 ……それは……それは……それはもう、いまの……このいまのこの生活のほうが。
(しどろもどろに「心」は答えた)
 ……いいんだろう、いまのほうがいいんだろう、ざまアみやがれ、すっとこどっこい[#「すっとこどっこい」に傍点]、そうなくっちゃならねえところだ。
 寸分の仮借なく声ならぬ「声」はせせら笑って――、
 ……第一、お前、この圓生師匠のところへ弟子入りした晩、あの長四畳へ引き取ったとき、何ていいやがった。壁に貼ってあるいろんな落語家の名のびらを見て、もうそれだけでいまの生活に大満足をしてたじゃないか。
 ……それがどうだそれが。まだ一年はおろか、半年も経たないうちにもうこんな口小言をいいだすなんて、これをしも心に驕りがでたといわないで何をいうんだ、おい小圓太おい、俺のいうことに間違いがあるか。
 ありません、たしかにありません。
 うなだれて口のうちで答えた。
 じゃ認めるな、ハッキリと認めるな、心の驕りだったということを。
 ハイ、認めます、すみませんでした。
 さらに低く口のうちで呟いた、声ならぬ声へ心で最敬礼をしながら。「三社祭」の善玉《ぜんだま》のような自分と同じ木綿の黒紋付を着た自分の「心」というやつが、しきりに頭へ手をやって閉口している姿がハッキリと目の前に見えるようだった。
 ウム、それならば――。
 はじめて相手は破顔一笑したらしく、
 やれ、元気をだしてやれ。
 お前は何もおもうことはない、不平も不満も希望すらも要らない、まだいまのうちは。
 ただただここの家に置かせていて貰うってことだけでいいとしろ。
 前途も糞もあるものか、ただ現在――現在だけをありがたいと三拝九拝していろよ、そこからきっと「路」が拓ける。
 でも、でも、そんな「路」が拓けるなんてことはずっと、ずうっと、あと[#「あと」に傍点]のことだ。
 くどいようだが、いまのこうやっていられることただそれだけを、ありがたいものにおもえ。そうおもう修業をしろ。
 二度とこんな了見違い起すと、ほんとに取り返しのつかないことになるぞ。
 いいな、分ったな。
「……わ、分りました」
 思わず大きな声立てて叫んだ。我れと我が声で、ハッと小圓太は気が付いた。冬日かがやいている柚の木の下、竹箒握りしめて果てしなき物思いに沈んでいた自分だった。少し汚れたおしきせ[#「おしきせ」に傍点]の黒紋付の肩先へ、ふたひら三ひら何かの落葉がふりかかっていた。あわてて振り落とすと小圓太は、またしても辺りを見廻した。向こうの大きな白山茶花の枝々を揺がせて、葡萄いろをした懸巣《かけす》が一羽おどろいたように飛び立っていった。
「……」
 フーッと息を吸い込み、フーッと吐きだした。もういっぺん深く吸ってもういっぺんまた深く吐きだした。何だか身も心も、あらゆる汚れがいっぺんに去ったように爽々としてきた。そういっても一木一草ひとつひとつがあらためて美しい真新《まっさら》な了見方でみつめられるような、しみじみと生れ変った心持だった。
「……」
 黙って手にしていた竹箒を両手で横に高く差し上げ、恭々しく小圓太はお辞儀をした。


     四

 もう落語を喋りたいとも考えなくなった。稽古をして貰いたいとも格別におもわなくなった。ただ何事もおもわずに、この世は夢のまた夢と無念無想に小圓太は、その日その日をまめまめと働きだした。慾も徳もなく、身を粉に砕いて働いていた。庭の落葉を掃きながら、心の落葉を掃き棄てることも日々だった。
「オイ小圓太や、蛙の牡丹餅て小噺しってるかえ。下席《しもせき》私は休みだからお稽古して上げようね、今度やれ[#「やれ」に傍点]。永いこと忙しさにかまけててすまなかったね」
 世の中ってこんなものだろう、そうしたら九日目の十二月二十日の朝、師匠のほうからいきなりこういいだしてきた、しかも珍しく機嫌のいいやさしい調子で。
「ド、どういたしまして。何分お願い申します」
 嬉しさに小圓太、ドキンと飛び上がった。じっと辛抱していた甲斐があったと、涙ぐましくおもわないわけにはゆかなかった。
 ……でも、その稽古、師匠のほうからそう口を切ってくれただけで、その日は一日師匠の家にいたけれど、部屋へ閉じ籠って夢中で「梅暦《うめごよみ》」か何かに読み耽っているらしかった。滅多にでてこず、やっとのび[#「のび」に傍点]をしながらでてきたときはもう座敷へでかける時刻になっていた。そのまんまいってしまってかえってきたのは九つ近く。すぐ例の酒が始まってそれなりけり[#「それなりけり」に傍点]となってしまった。
 次の日も「梅暦」で夜も日も明けないらしかった。お神さんにもすすめていっしょに読ませているらしく、昼の食事を運んでいくと机の上にひろげられた一冊の本へ夫婦が鴛鴦《えんおう》のように肩を並べて睦じく目を落としていた。小圓太のほうなんか振り向いてもくれなかった。
 灯がつくとまた師匠はお座敷にでかけていった。また遅くかえってきた。また飲んでまた寝てしまった。
 その次の日は文楽師匠、馬生師匠、りう馬師匠、他いろいろの人が朝早くからやってきた。そうして運座がはじまった。題は「雪」「餅搗」「落葉」だった。りう馬師匠が「からからと日本堤の落葉かな」という句をだして、そりゃお前抱一上人さまの名高え句じゃねえかと文楽さんからたしなめられ、一同大笑いになったりした。運座はいい加減にして間もなくお酒がはじまり、歌えよ踊れよの年忘れ、到底稽古どころではなかった。
 次の日は誰もこなかった。「梅暦」ももうおしまいになったとみえてお神さんはおしのどんを指図して台所で春の仕度に余念がなかった。師匠一人が退屈していた。しきりに家の中を行ったりきたりしていた。でもなぜか稽古はしてくれなかった。
 その次の日もまた、そうだった。いよいよ師匠は身体を持て扱っているらしく、「アー……アー……」としきりに大あくびをしては、
「誰か……誰かこねえかなあ遊びに。どうもたま[#「たま」に傍点]にこうやってジッと家にいると身を切られるより辛い」
 と世にも寂しそうな顔をした。そんなに所在なさに苦しんでおいでなのなら――ムラムラと小圓太はいまお稽古して貰いたさの念に駆り立てられてきた。
「あの……師匠……」
 で、つい昼の食事の膳を片づけにいったあと、いいにくそうに小圓太は切りだしてしまった。
「何だえ」
 物やわらかな調子で師匠はこちらへ顔を向けてきた。
「あの……きょう……あのすみませんが私に……あの願えませんでしょうかしら」
 思い切ってさらにまたいってみた。
「何を願うんだっけなお前に」
 けげんそうに師匠は少し口を尖らかした。
「いえ、あの……お稽古なんで」
 ちょいと頭を掻く真似を、小圓太はした。
「何のお稽古?」
 いよいよ師匠はけげんそうな顔をした。
「いえ、あの、こないだ師匠がおっしゃって下すったんで、お稽古をって」
「だから何の誰の?」
「私のなんで」
 もういっぺん思い切ってこういったとき、
「エ、お前の稽古、駄目だよ今日は」
 たちまち世にもおっかない[#「おっかない」に傍点]顔に変って、
「オイ少し積ってもみてごらん。こんな私がクサクサしてる了見の日にお前の噺の稽古なんかできるものかできないものか。駄目駄目駄目きょうは駄目だよ。きょうはお前、私ァ退屈で困ってるんだもの」
「……」

 また次の日とその次の日と座敷がつづいてフイ。もう数え日の二十七日の晩――。
「おい、やって上げますよ。小圓太、今夜は。さあ早く膳を片づけてそこへお坐り。一日延ばしに延ばして勘弁しておくんなさいよ」
 何とおもったか晩酌を一本きりでやめた師匠が、いつにない上々の機嫌でいいだした。
「ありがとうございます、何分どうか」
 何度目の正直だろう、でもうそ[#「うそ」に傍点]もかくし[#「かくし」に傍点]もないところ、その都度、手の舞い、足の踏みどころをしらないといってよかった小圓太だった。いそいそ立ち上がって大急ぎでその辺を片づけると、
「では師匠お願いいたします」
 お辞儀をしてチョコナンと師匠の前へ坐った。
「ウム」
 大きく肯いて師匠も居ずまいを直した。いよいよ稽古が始まろうとしたときだった、玄関のほうで人の訪《おとな》う声がした。
「あの杉大門の御主人がお見えになりましたが――」
 次の間へ手をつかえておしのが取り次いできた。
「エ、杉大門が。そりゃ珍しい。オイすぐこっちへお通し申せ。そうして小圓太、お前はな、早くお神さんやおしのを手伝って酒の仕度を」
 いうかとおもうと、早くも上がってきた頬に刀傷のある目の険しい五十|彼是《かれこれ》の渡世人上がりの四谷杉大門の寄席の主へ、
「よウよウ珍しい珍しい兄貴、相手ほしやでいま困ってたとこなんだ、さ、今夜ゆっくり遊んでってくれ、夜明かしで飲み明かそう」
 たちまち外面《そとづら》のいい圓生は相好を崩してこう迎えるのだった。
 いざこざ[#「いざこざ」に傍点]なしにすぐお酒がはじまってしまった。やったりとったり[#「やったりとったり」に傍点]――杉大門もなかなかの飲み手で尽くるところをしらなかった。さっさ[#「さっさ」に傍点]とお神さんはねてしまった、九つ近くになって、やっと席亭はかえっていった。

「すまなかったね昨夜、あんな剽軽《ひょうきん》者が飛び込んできてしまって、さ、今夜はやって上げますよ」
 とても駄目だとあきらめていたのに、思いがけなく晩酌のとき、またこういいだ
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