れた。
何ともいえぬ芸術的満足感に満身を燃やしながら次郎吉はさしぐまれるほど興奮して、兄弟子たちと茫然と勇ましい師匠の筆の伸びてゆく跡を目で追っていた。多くの兄弟子たちの中に師匠に瓜二つの勇ましい絵を描くこれも癇癪持らしい背の高い男と、優美な絵を得意とする口数の少ない色白の男とがいた。師匠張りの絵を描く男がのち[#「のち」に傍点]の月岡|芳年《ほうねん》だった。優美な絵を描く方がのち[#「のち」に傍点]の落合|芳幾《よしいく》だった。師匠は今いったような次第で到底じか[#「じか」に傍点]に手を取ってなんか教えてくれそうもなかったから、主としてこの二人の兄弟子から丹誠の手ほどきを受けることにした。二人とも教え方の呼吸に違いはあったが、それぞれ親切に教えてくれた。次郎吉はこの二人の上に他人とおもえない情誼をおぼえた。心から、兄事した。
さるほどに――。
上野や向島や御殿山の花もいつか散りそめ、程ちかき人形町界隈の糸柳めっきり銀緑に萌え始めてきた頃、やっと次郎吉は雑魚《ざこ》の魚《とと》まじりながらに、師匠の描いた絵草紙の下図へ絵の具を施すくらいのことはできるようになってきた。いつ迄も忘れないだろう、師匠国芳が酔余の走り書きになる黒旋風李達が阿修羅のような立姿へ、はじめて藍と朱と墨とを彩ってゆくことができたあの瞬間の晴れがましさよ。何ともいえない恐しさ嬉しさにみっともないほどガタガタ次郎吉は筆が慄えて止まらなかった。にもかかわらず、塗りおえたとき、何にもいわずにきょうも茶碗酒を呷りながらジーッとそれを見ていた師匠は、
「次郎、お前《めえ》、筋がいい」
酒で真っ赤にした目をパチパチさせながら、簡単にただこれだけいってくれた。
ハッと次郎吉はまた身が竦んだ。思わず鼻の筋が弛んで、キーンと泣けそうになってきた。
「オイお前《めえ》うち[#「うち」に傍点]の師匠が賞めるなんて滅多にねえんだ、忘れるなよ」
どやしつけるように背中を叩いて芳年がいった。
「ほんとに勉強しておくれよ次郎さん」
笑顔でやさしく芳幾もいってくれた。
「やり……やりますよ……」
いよいよ泣けそうになってくるのに一生懸命次郎吉は耐えた。耐えていた。でもやっぱり次第々々にこみ上げてくるものがあって、目の前いっぱいに仁王立ちしている活けるがごとき黒旋風李達の、ボーッと淡《うす》れていってしまうことが仕方がなかった。
さてもういっぺんいわせて貰おう、さるほどに――。
ことごとく世は真夏となって、師匠国芳がこの玄冶店の路次々々へ声涼しげにくる心太《ところてん》売を呼び止めては曲突きをさせたそのあと、二杯酢と辛子で合えたやつを肴に、冷やした焼酎を引っかけるのが日々の習いとなってきたころ、次郎吉の腕はいよいよ上がってどうやら近日師匠の代作の三枚続きを仕上げられる迄に至った。
もちろん芳年、芳幾といっしょにだったが、それにしても、構図は九絞龍と花和尚が瓦灌寺雪の暗闘《だんまり》の大首絵とあっては――。人物風景の大半はほとんどこの兄弟子二人が片づけてしまい、まだ表立って名も貰っていない次郎吉はベトベト胡粉《ごふん》で牡丹雪を降らすばかりだったが、それだけのことでもこの程度の修業年月で引き受けさせられるのは前例のない速さだとされた。天にも昇る心地してさっそく湯島の両親のもとへ報せてやった。
何よりも母のおすみが喜んだ。
「今度こそお前、あの子も本物になったよ」
こういっておすみが顔を燦《かがや》かせると、
「ほんにほんに。芸は芸でも絵師ならどんなにか世間体もよいし。でもまあ母上、真実にようござりました」
報せに駈けつけてきた玄正も幾度か他人事ならず嬉しそうにひとり肯いたりした。
しっかりやっておくれ、兄《あに》さんも大へんにお喜びなのだから――間もなく母からは心をこめた激励の手紙さえ届けられてきた。さすがに次郎吉、うれしくないことはなかった。ばかりか、心が弾み立った。
俺しっかりやる。
たとえ雪ばかり描くんだって、兄弟子さんたち二人に、きっと負けないようやってみせら。
キッと唇を噛みしめて、次郎吉は心に誓った。
……その日がきた。
上からは照る、下からは蒸すとよく講釈師がいうような烈しいあぶらでり[#「あぶらでり」に傍点]。朝のうち、曇っていまにも降るかと見せたのがまたいつか雲が絶え、どうやら天気が持ち直してきた。で、いっそう暑さがしつこく[#「しつこく」に傍点]ジリジリしてきた。
暑さで気が狂いそうだといって師匠の国芳は、朝から素ッ裸で冷やした焼酎ばかり傾けては、ボリボリ薄青い胡瓜を丸齧りにしていた。
緊張していたから次郎吉は暑さも物皮《ももかわ》の意気込みだったが、うつむいて台所の脇の小部屋で絵の具を溶いていると、さすがにあとからあとから落ちてくる大汗でたちまち絵の具皿の中がダブダブになってしまった。これには困らないわけにはゆかなかった。
ウーム、ひどい。
何べんか拳固で額を横撫でにこすり上げては溜息を吐いた。こんな暑さじゃ寄席もお客がこなかろうし、第一、汗ッかきの阿父さんさぞ困ってるだろうなと、珍しくそうしたことをふとおもった。
「次郎、かかるぜもう」
そのとき仕事場のほうで芳年の甲高い声が聞こえた。
「持ってきておくれな絵の具を」
つづいて芳幾の声だった。
「へーイ」
いま溶いていた絵の具皿の、まず胡粉のからグイと両手で差し上げて立ち上がろうとしたとき次郎吉は、急に目の中へ白い矢が突き刺さったようなものを感じた。クラクラと足がよろめいた。
皿の胡粉が漣《さざなみ》打ってきた。
ア、いけない。
おどろいて足を踏みしめようとしたとたん、今度は目の前が真っ暗になり、何ともいえないきな[#「きな」に傍点]臭いようないやあな[#「いやあな」に傍点]匂いが鼻先を掠めた。ひどい吐き気を感じてきた。
いけない、ウー、いけない。
我れと我が身へしっかりしろしっかりしろと呼びかけたけれど、何の他足《たそく》にもならなかった。カカカカーッと火のようなものが胸許を走り上がってきたとおもったら、何だろうガバガバガバといきなり吐いた。絵の具皿を放りだしてうつ[#「うつ」に傍点]伏せに打ッ倒れたのとガーッと何をか吐いたのとがほとんど同時だった。
「……」
けたたましい物音に愕いて兄弟子たちが駈けつけてきたとき、
「ウム、ウーム」
すさまじい呻り声立てて、バッタリ次郎吉は倒れていた。しかも倒れているその周り、時ならぬ胡粉の雪の白皚々《はくがいがい》へはベットリながれている唐紅《からくれない》の小川があった。
吐血したのだった。
とりあえずその小部屋へ蒲団を敷いて次郎吉は、寝かされた。ある者はすぐ医者を呼びにいった。またある者は湯島の家へと報せに走った。
意地も我慢もなくただもうグッタリと次郎吉は、絵の具の匂いの濃く鼻をつく暗い蒸暑い小部屋の片隅で伸びていた。青白く血の気の引いた硬ばった顔が、ピクピクピクピク痙攣していた。ときどき起き上がるとトプッと枕許の金盥《かなだらい》へまた血を吐いた、ほんの鶏頭の花ほどだったが。
「しっかり、しっかりしろ次郎。いま桐庵先生がきて下さるぞ」
やっぱり酒で真赤な顔をしたまま、元気を付けるように国芳はいった。東海林桐庵先生は国芳の師匠、中橋の豊国から引き続いてかかりつけ[#「かかりつけ」に傍点]の名医だった。そのころ通油町《とおりあぶらちょう》に住んで、町医者でありながらひと格《かど》以上の見識を持っていた。
「……」
コクリと次郎吉は肯いた、師匠すみませんという風に。
芳年は大団扇で倒れた弟弟子の上を、しきりに荒々しく煽いでやっていた。額の上の手拭が生暖かくなった時分、また冷たいのと取り替えてきてはのせてくれるのは芳幾だった。あいにく往診中だった桐庵先生が、それが持ち前の托鉢坊主のような風体をしてやってきて下すったのは、正午をよほど廻ってからだった。もう圓太郎夫婦も、義兄玄正もみんな心配そうに枕許へ詰めかけてきていた。大団扇は芳年の手から世にも真っ青な顔をした母おすみの手へと移されていた。冷やし手拭を取り替える役も心配そうに顔を曇らせている義兄玄正にと変っていた。中でも父親の圓太郎はペタッと坐ってしまって、師匠の国芳へ礼やら詫びやらいうことさえ忘れ、ただもう恥も慮外もなくオドオド溜息を吐いているばかりだった。
「あの……師匠ちょっと」
七十越したとはおもわれない元気な手つきで手早く診察をおえてしまうと桐庵は、国芳のほうへ目配せした。フラフラ立ち上がって国芳は桐庵と仕事場のほうへでていったが、すぐまた二人してかえってくると、
「じゃ先生、何でもお前さん、あけりゃんこ[#「あけりゃんこ」に傍点]のところをこの人たちにいってやっておくんなせえ、私《あっし》ァちょいと他行だ」
親指と人指指とを丸めて猪口の形をこしらえ、ニヤリ口のところへ持っていって見せると熟柿臭い呼吸を吐きちらしながら国芳、芳年芳幾の二人を促がしてまたフラフラとでていってしまった。
あとへは桐庵先生を枕許に、圓太郎夫婦と玄正とがのこされているばかりだった。
……駄目だというのかな、こりゃことによると。
そう、きっとそれにちがいない。
でなければこんな自分たちだけをのこして、さっさと国芳お師匠《しょ》さんが引き取ってっておしまいなさるわけがない。
一瞬間誰もの胸をスーッと外《よ》ぎってゆく暗い冷たいものがあった。そういっても重苦しいものでいっぱいに皆の胸がしめつけられてきた。それには薄暗いこの部屋の鼻をつく絵の具の匂いが屍臭をおもわせて不吉だった。
「……」
圓太郎夫婦の、玄正の、期せずして六つの目が、桐庵先生の無精鬚だらけの塩鰤《しおぶり》をおもわせる顔の上へと集まった、紅か白粉かと胸|戦《おのの》かして最後の宣告を待つもののように。
「オイこの病人はな」
世にも無雑作に先生は口を切った、皺枯れ声で。
思わずハッと一同がみつめていた先生の顔を、さらにまた深くみつめ直すようにした。皆の胸がドキドキしてきた。
「死ぬよ、これは」
そのときだった。世にも未練ない調子で、こう先生はいい放った。おお紅。南無三、紅が流れてきた……。
「とッとッと」
ニヤリ先生は毛むくじゃらな手で遮って、
「気の早い人たちじゃな、もう少し聞かっしゃい話の先を。このままここでこの道に進ませておいたら間違いなく死ぬとこういうのじゃ」
またニヤッと一同の顔を意味深げに見廻した。
「で……では……先生次郎吉は……何とか……何とかあの助かりますので」
膝行《いざ》り寄るようにして義兄玄正が訊ねた。
「ウム」
ガクリと大きく顎を揺って、
「助かる、たしかに」
頼もしそうに先生はいった。
「お願いで、お願いでございます、どうか、どうか先生お助けなすって」
声もオロオロおすみはいった。顔中がしとど涙で濡れていた。その後で父圓太郎は、ただもういたずらにパクパク口だけ動かしてポカンとしていた。
「だがしかし」
ギロリと若者のように目を光らせて先生は、
「このままではいかん、このままこの者にこうしたコツコツと身体を動かさずやる仕事をさせておいたなら間違いなく労咳《ろうがい》になる。そうして死ぬ、現にこれこの通り労咳のトバ口、血を吐いていおる」
「……」
黙って玄正は目を伏せた。おすみの唇が烈しくワナワナ慄えていた、父親といっしょに。
「さりとて力業は尚いかん。いや、むずかしいのじゃ一番こういう質《たち》の子が」
しみじみと嘆息するように、
「早い話が己の身に付いた道を走らせてやれば仲々に長生きもするだろうが、そうでないところを歩かせたりすると気鬱からすぐ労咳になる。労症労咳、繰り返していうようじゃが、命取りじゃ。これは知っていなさるなよく」
またギロリと一同を睨み廻した。恐れ入ったように玄正が頭を下げた。いっしょにおすみ、圓太郎もお辞儀をした。
「と、いたしますとあの先生、この子、一体あのどういう道に進ませましたなら……」
ややあ
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