いの汗をしきりにこぼれ松葉の手拭で拭きながら、薄暗い山城屋の店先へ腰を下ろした、心の中ではヤレヤレ野郎また何か仕出かしやがったなと店先にちょこなん[#「ちょこなん」に傍点]とかしこまっている次郎吉のほうをチラチラ情なく見やりながら。
「見ておくれ、これ」
 苦り切って糸瓜《へちま》ほど長い黒い顔をした大番頭さんが、金箱のへり[#「へり」に傍点]へ手を掛け少し傾けるようにして中を見せた。
 表の反射で薄明るい金箱の中にはいくつもいくつも何か字の書いてある黒く汚れた紙包みが押し合い、へし合っていた。
「な、何でござんしょう、それ」
 解《げ》せないもののように圓太郎は丸々とした頸を傾《かし》げた。
「お前さん方《がた》のほうのお給金、ワリ[#「ワリ」に傍点]とか何とかいうんだそうだね、その給金《わり》なのだこれ[#「これ」に傍点]、この人がこしらえた……」
「ゲッ」
 急にサーッと圓太郎顔いろを変えたかとおもうと、
「ト、とんでもねえ。……じゃじゃ番頭《ばんつ》さん、コ、この餓鬼ァお店のお宝を給金にして、ダ、誰かあっしどもの仲間にでも運んでやってたんで」
 いいながらツツーと猿臂《えんぴ》を伸ばしてちぢかまっている次郎吉の首根っ子をあわや掴まえようとした。
「ま、待った、師匠」
 あわてて番頭、遮ると、
「待って……まあ待ってったら圓太郎さん」
「う、うっちゃっといておくんなせえ、いいえこんな……こんな盗人《ぬすっと》野郎。そ、そこの不忍の池へ叩ッ込んで、む、貉《むじな》の餌食にでもしてやらなきゃ」
「いい加減におし圓太郎さんてば」
 今度はあやうくふきだしそうにさえなりながら番頭、
「人《しと》……。不忍の池の中に貉がいるかえ」
「ア、違《ちげ》えねえ、狸だ」
「狸もいないよ水ン中にゃ」
「じゃ何でしょう」
「私に訊く奴がありますかえ」
 呆れ返って、
「いおうならお前さんそれも獺《かわうそ》だろう」
「ウ、それだ、ソ、その獺の餌食にしなけりゃ、こ、この私《あっし》の……胸が、胸が……」
 またもや次郎吉のほうへのしかかっていこうとする腕へ、ぶら下がるようにつかまって、
「いやだてばそう早合点をしちまっちゃ、お前さん。いいえ……いいえさ、何もそんな大それた、この子がお店のお銭《あし》へ手をかけたっていうのじゃない」
「だ、だって現に……現にこの通り番頭《ばんつ》さん」
「だからさ、ねえ、だから話はおしまいまで聞いて貰わなけりゃ。いいえ、くどくもいうとおりこの子は決してうち[#「うち」に傍点]のお宝を泥棒をしたんでも何でもない、ただ寄るとたかるとお店のお銭を、お給金《わり》かい、つまりそのお給金《わり》の形にこしらえちまっちゃ喜んでるんだ。金箱を開けてみるとあるったけのお銭がみんな紙に包んでお給金《わり》になってる。それじゃお前さん、お客様がお見えになってイザ御両替っていうとき、いちいち紙を破いたり何かと手がかかってしまって仕方がない。何べん叱っても叱ってもまたやってしまうんだ。だからそんなお前さん、手のかかる子供を私のところじゃ、とてもお預りしてはとこう……」
「……」
 話の途中からだんだん柔和な顔付きを取り戻していっていた圓太郎が、やがてはそもそも嬉し可笑しそうにゲラゲラゲラゲラ笑いだすと、
「エ、そ、そいじゃ……こ、こいつがお店のお銭をしょっちゅうお給金《わり》にこしらえちゃ、ただ楽しんでいるってこういうわけなんで。じゃ、つまり盗《と》るんでもない、ただこうこしれえちゃ楽しんでるだけ……こいつァ、こいつァ……」
 大きなお腹を両手で押さえるようにして、
「フッハッハッハ、こいつァいいや」
「いやだな。この人は。お前さんがそうそこで喜んでしまっちゃ」
 困ったように番頭はいったが、
「だって……だって、いい話ですよこいつァ、番頭さん。さすがに……さすがに次郎公はあっしの忰だ。ウム、いい、じつにいい話だ」
「ちっともいい話じゃありゃしない」
 いよいよ番頭困ってしまって、
「見ておくんなさい、何しろその悪戯《いたずら》を」
 再び金箱を傾けるようにして突き付けると、未だ満面に笑《えみ》をたたえながら圓太郎、器用にこしらえられている給金《わり》の包みを手に取って、ひとつひとつ感心したように眺めていたが、やがてズーッと自分の前の畳の上へ並べてみて尚もしきりに眺め廻しているうち、にわかに何か不審でならないもののようにキョトンとした目をパチパチしだした、とおもううち大発見でもしたかのようにやがてその目はサッと喜びにかがやきだした、ばかりかしばらく大きな掌の上へのせて重みを計っていた「圓太郎御師様」と書いた分と「小圓太様」と書いた分とを世にも恭しく押し頂いて、
「偉い!」
 吃驚するような大きな声でこういうと、
「ウーム、うそ[#「うそ」に傍点]にもせよ俺の分と手前の分だけ他の人よりいい給金《わり》をこしらえやがるなんて、ああ人間はこういきてえ。偉え、次郎公偉え偉え、たしかに偉えぞ、オーイ番頭《ばんつ》さん」
 しゃくるようにすぐ目の前の黒い長い顔を見上げて、
「ねえ、もし、うちの次郎公は不都合どころか、日本一の親孝行者ですぜ」
 ……そうもの[#「もの」に傍点]が分らなくなっちゃ始末がわるい。とうとう今度は番頭がキュッと両手でお腹をかかえて、転げるようにいつ迄もいつ迄も笑いだした。同時に最前から我慢していた中番頭も手代も小僧たちも、果ては次郎吉までがいっしょになってゲラゲラゲラゲラ笑いだした。
 早いお花見の目鬘《めかずら》を売る爺さんが一人、不思議そうに店の中を覗き込みながら通り過ぎていった。

 今度こそ圓太郎は次郎吉を元の小圓太にさせてやりたくてならなかったが、やっぱり手厳しく女房に反対された。玄正の反対もまた絶対だった。
 拠所《よんどころ》なく西黒門町の青物屋八百春へ奉公にだしてやった。
 二日……三日……四日。
 何事もなかった。
 五日目の夕方になると、だしぬけに寝た間も忘れない寄席の一番太鼓がドロドロドロンとすぐ八百春の後のほうで鳴りはじめた。つづいて大太鼓小太鼓入りみだれて賑やかに二番太鼓が囃《はや》されてきた。
「親方あれは」
 慈姑《くわい》の泥を洗っていた手をやめて次郎吉は訊ねた。
「ウム。裏の牡丹亭って貸席だ。ときどき三日か五日、チャチな寄席に早替りする。今夜は何か素人の落語家がかかるらしい」
 神棚へお燈明を上げていた親方が後向きのまんま、いった。そういううちも、四《し》丁目の三味線太鼓|早間《はやま》に賑々しく地囃子が、水銀《みずがね》いろをした暮春の夕闇をかき乱すように聞こえてくる。
「……」
 呼吸を奪われてしまいそうな物恋しさだった。物悲しさだった、甘い寄りどころない遣瀬《やるせ》なさでもまたあった。烈しくそれは次郎吉の五体を揺ってきた。否、五体の隅々果て果てまでを、切なく悩ましく揺り動かしてきた。極度のやる方なさに苛《さいな》まれながら、しかも一面そこには不思議と恍惚たる快感が伴われていた。泣きじゃくりながら、シッカリ抱擁し合っている恋びと同士――それにも似ているかもしれなかった、あたかもこのいまの心持は。
 絶えて久しい心のふるさと寄席への郷愁――全身全魂が、まるで南蛮渡りの秘薬の匂いでも嗅がされたよう、うれしく、悲しく、ただぼんやりと憑かれたように媚《しび》れてきてしまっていた。
「……」
 ボーッと夢見心地に包まれながら次郎吉は、そのままフラフラフラフラ薄闇の彼方へ迷いでていった。夢中で黒塀について曲った。
「シャーイ……シャーイ……」
 赤と青と提灯の灯が揺れ、拙《つたな》い字で天狗連らしいちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]な落語家の名前が、汚れた庵《いおり》看板の中にでかでか[#「でかでか」に傍点]と書かれてあった。まだお客は一人もつっかけていないらしかった。
 でも提灯の灯も庵の中の芸人の名前も何にも次郎吉には見えなかった。ただシャーイシャーイというあの聞き馴れた声ばかりが大きくなつかしく聞こえてきた。恋びとの声にも似て、それはキューッと胸許を嬉しく苦しく掻きみだし、また締めつけてきた。
「……」
 黙ってスーッと入っていった。そのまんま正面にひろがっている大きな段梯子をカタカタ上がっていこうとした。
「オ、オイ兄《あん》ちゃん下駄々々、下駄ッたら、困るよ兄《あん》ちゃん、そんな下駄のまんまで上がられちゃ」
 背中からけたたましい下足番の声が追い駈けてきた。
「……」
 やっぱり黙ったまんま後戻りして黙って下駄をぬいだ。そのまんま黙って上がっていこうとした。
「オ、オイ木戸銭々々々」
 またけたたましい下足番の声が追い駈けてきた。
「……」
 三たび黙って後戻りすると、シッカリ両手に掴んでいたものを、ポンと下足番の前へ突き出してひらいた。
 コロコロコロ。
 異様な青黄いものがたちまち土間へころがった。
 慈姑だった。最前の。

 今度かえってくるようだったら、もう阿母さんはお前を家へ置きません、いいえ阿父さんが何とおっしゃっても。頼むからお前辛抱しておくれね。
 泣いて、こう母親に意見されて、その次の日、次郎吉は練塀小路《ねりべいこうじ》の肴屋魚鉄へ奉公にやられた。四十ちかいガチャ鉄と仇名される赤ら顔で大男のそこの主人は、三度の飯より喧嘩が好きで、一日にいっぺん往来で撲り合いをしないとお飯《まんま》が美味しくたべられない男だった。左右の腕へ上り龍下り龍の刺青をした見るから喧嘩早そうな見てくれで、どこでも喧嘩をしなかったときは血が騒いでならないとて手鉤を持ってきては商売物の大鮪や大平目の胴体へ、所|嫌《きら》わず滅多やたらにそいつをぶち込んだ。何条もって耐るべき大切の商売物、肉は崩れ、骨は飛び、一瞬にしてめちゃめちゃになってしまうのだったが、こうでもしなけりゃ俺夜っぴて寝られねえものと平気で空嘯《そらぶ》いていた。
 それほどの乱暴な男だったから、二十代の血気盛りの奉公人たちがみんな訳もなくチリチリしていた。そこへ次郎吉は奉公にやられたのだった。選りに選ってここなら大丈夫と、内々、母親が主人の気ッ風を探っておいてよこしたのだろう、さすがに次郎吉も今度ばかりは大人しく辛抱した。いや、せざるを得なかった。目のあたり見るガチャ鉄の蛮勇には歯が立たず、強そうな朋輩たちがでろれん[#「でろれん」に傍点]祭文のような鍛えた塩辛声でガチャ鉄から頭ごなしに怒鳴り付けられているのを見ると、いっぺんでピリピリふるえ上がってしまったのだった。
 ……今度ばかりは寄席のことなどおもいだしている暇など許されなかった。黙々と、身を粉にして働いた。ひたすらにただひたすらに牛馬のように働いているよりなかった、朝早《あさはや》の買出しの手伝いに、店の細々《こまごま》とした出入りに。
 ひと月……ふた月……いつか祭月がきのうと過ぎ、暦の上の秋が立った。遠く見える明神さまの大銀杏がそろそろ黄いろいものを見せはじめてきた。
「やっとお前さん、次郎吉今度は辛抱したようだよ、いいところへやった、やっぱり親方がやかましいからだねえ。どんなにか玄正も喜ぶだろう、きっと、きっとあの子、今度はものになるよ」
 ある晩嬉しそうにおすみがこういって晩酌のお銚子を取り上げたが、
「ウム……ウム……」
 接穂《つぎほ》なく肯いているばかりの圓太郎だった。口へ運ぶ盃のお酒が苦そうだった。で、一、二杯、口にふくんですぐ下へ置いてしまった。柄にもなく神妙な顔をして寂しくはしごの下の早い※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]《こおろぎ》に聴き入っていた。

 ……では今度こそ次郎吉は辛抱したのだろうか、母親の喜ぶように。
 否――否――どういたしまして――。
 親方恐しさの、ただジーッと辛抱しているより他に手がなくて、不本意ながら住み付いていたばかりなのだ。そのほかの何がどうあるものだろう。
 日ごろ人情噺や講釈で聴いている侠気《いなせ》な江戸っ子の肴屋気質は随分嬉しいものとして、イザ現実にこういう人にぶつかってみるとやっぱり生粋の
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