に寝返り打って起き直ろうとした圓生が自分の枕許に「お師匠さまへ、圓朝」としたためた紙包みの中、その頃のお金にして大枚五十金包まれていたことを発見して、廻らぬ舌で騒ぎ立てたのは、それからふた刻あまり後のことだった。
五
……そのころもう圓朝は代地の小糸のところへ戻って、ひとッ風呂汗を流し、二階の小座敷で暑気払いのなおし[#「なおし」に傍点]をチビリチビリと傾けていた、すぐ自宅に遊んでいる若い者二人を四谷の師匠のところへ泊りがけで手伝いにやっておいて。
「それにしてもきょうほど私はねえ、小糸」
うれしそうにコップのなおしをひと口啜って圓朝は、また下へ置いた。
「……」
黙って肯いた。しみじみとした黒い眸にも隠し切れない歓びのいろがかがやいていた。またしても嬉しいときには嬉しいことがつづく、あの昔雷隠居に高座から引き摺り下ろされ、泣いて口惜しがった赤坂一つ木の寄席宮志多亭からきょう留守中に、七月下席、即ち書入れのお盆の真打を頼んできていたのだった。あの晩、空っ風に吹かれたまま、いつまでもいつまでも去りやらず睨んでいた招き行燈の中へ、今こそ「三遊亭圓朝」の五文字を筆に書き入れさせるときがきた、そうしてあかあかとその字を灯の中へ浮きださせてやるときが――。
「ねえ不思議じゃないか、ひとつひとつ引道具のようにいやなことが消えてなくなっていく。そしちゃ、一段一段とそのたんび私の看板がせり出しのように上がっていく。いよいよたくさん勉強しなけりゃいけないのはもちろんだけれど、それにしてもいいのかなあこれで、ほんとうにいいのかなあ私ァこれで」
うれしそうに辺りをぐるぐる見廻しながらまたコップを。そのあと華奢な象牙の箸でギヤマンの大鉢の中の銀のような鱸《すずき》の洗いのひと切れを、さも美味しそうに口へ運んだ。
「……」
やっぱり小糸は肯いた、月の出のように顔全体をかがやかすことによってのみ、ひたすら、心の喜びのたけをあらわして。
「で、ねえ……」
しばらくほれぼれと圓朝は寂しい美しい目の前の顔を見守っていたが、
「やる、とにかく、やる、手一杯ひろげられるだけこの手を大きくひろげて、もっと派手に、もっと華やかに私は売ってみせる。仲間の悪口なんか、もう耳にたこ[#「たこ」に傍点]でてんで[#「てんで」に傍点]気になんかならなくなってしまったんだ」
薄青いなおし[#「なおし」に傍点]を飲み干すと、
「猿若の三座……いやまさか三座は無理だけれど、宮地《みやち》芝居、緞帳でいい。いまに私は芝居小屋を開けてきっと三遊亭圓朝の看板を上げてみせる。そのときの道具噺はいまの五倍七倍も派手なもの、大がかりのもののつもりなんだ」
「……」
三たび濡れた目へ信頼のいろを漲らせて女は、肯いた。
「それには演題《だしもの》――演題の選び方、立て方が大専《だいせん》だ。むろん、芸が空《から》っ下手《ぺた》じゃいけないが、何よりアッといわせるような演題の案文《あんもん》がつかないことには仕方がない、ねえ小糸」
少しにじり寄るようにしてきて、
「噺の途中へお化けのでるときは私は都楽《とらく》や都船《とせん》の写し絵をつかいたい、忍びの術使いのでるときには鈴川一座の日本|手品《てづま》や水芸もつかいたい、時と場合によったら筋の都合で、とがや紫蝶のあやつり人形もよかろうし、松島亀之助の山雀《やまがら》の曲芸、猿芝居だって使おうとおもう、そういう連中をあれこれと舞台一杯に手配しておいてその上大道具大仕掛大鳴物で、噺と噺との合間を面白可笑しくつないでいく、たしかにこれは江戸中の人たちがアッと目を瞠るだろうとおもうんだ」
「……」
またしても目が肯いた、嬉しげに、頼もし気に。
「ああ演りたい、早く演りたいなあ、一日も早く。それを演って二千七町八百八町を引っ繰り返してしまいたいんだ、ああ、ほんとに早く私は……」
今から大舞台いっぱいの豪華絵巻を目に描くとき、早くもとてもこうやってはいられないほどの芸拗を全身全魂に感じだしたらしく圓朝は、また半分ほど酌がせたなおし[#「なおし」に傍点]を今度はひと息に飲んでしまい、ブルブルブルと総身を慄わし、フーッと大きく息を吐きだすと、いつかすっかり黒雲重く垂れこめてしまっている川向こうの景色へ、勢《きお》い立っているいまの心の捌け場を探すもののよう目をやった。松浦様の大椎の木あたり、ようやく迫ってきている暮色をいやが上にも暗いすさまじいものにして、はや大粒の雨、そこでは飛沫《しぶき》を立ててふりだしているかとおもわれる。
「オ、いい心持でひとりで喋っていたら、とんだ空合になってきてしまった。降《ば》れるな今夜は」
降ることをばれる[#「ばれる」に傍点]と、仲間の符喋でいいながらスッと圓朝は立ち上がっていって欄干《てすり》へ寄った。少し乗りだすようにして両国橋のほうを見るとポツリポツリ、早くも親指の尖のほど渦巻がいくつもいくつも川面へ描かれてはまた消えている。
でも、どうしてだろう、いつももう浮いたようないろの灯点して囃し立てている広小路の盛り場が、ヒッソリ今夜は薄闇の中に静まり返っていた。
「出してくれ着物」
すぐ高座着をださせ、合羽をださせ、かっこうよくひとつひとつそれを身に着けて、
「じゃ、おい」
いってくるよといっしょに階下《した》へ下りようとしたのと、バタバタ真っ青な顔して女中の駈け上がってきたのとがいっしょだった。
「あの……おいでになれませんよお師匠《しょ》さん寄席へは」
息はずませて女中はいった。
「どうして」
圓朝は訊ねた。
「開かないんです木戸が」
また女中はいった、やっぱり息はずませながら。
「な、何ですかいま……大へんな戦《いくさ》が始まったんですって」
六
すぐに圓朝は、小糸を自分の家へ――。
母を見舞わせ、弟子たちの様子を聞かせ、同時に戦の様子も詳しく聞いてこさせることにした。自分は女中を手伝って二階を片づけ、すぐまた下りてきてどんどんそこらの戸を閉めた。すっかり閉め切ってしまったとき、サーッと篠《しの》を乱したような大降りになってきた。
ダン、ダ、ダーン。なるほど殷々《いんいん》たる砲声が、遠くのほうから轟きだしてきた。
いよいよ何かはじまった――。
戸棚から真鍮の燭台を持ちださせ、それを下の座敷のまん中へ置いて圓朝は、たった一本だけのこっていた青蝋燭へ灯を点した。普通の蝋燭の灯のいろとちがって少し陰気で薄黄色いのが、いっそうこの場合の部屋のたたずまいを無気味にした。四方八方閉め切っているのにしきりにどこからか生暖かい風が忍び入ってきて、その灯を揺り動かした、まるでいまにも消してしまいそうに。無気味さが、ますます部屋一杯にひろがってきた。
その灯の傍に坐って圓朝は、ジッと目を閉じ、腕組んでいた。少し離れたところに、ペタッと腰を落として女中も遠くから不安そうに主人の顔を見上げていた。
「開けて……あの開けて……私」
ピューッとまた横なぐりの雨が表の戸へ吹きつけてきたとき、小刻みに駈けてきた足音が急に止まって、声がした。小糸だった。すぐ女中が立っていった。
びっしょり[#「びっしょり」に傍点]濡れしょぼけて入ってきた。母のおすみも元気だった。少し遅い出番の弟子たちはまだ家にいて無事だったけれど、早くでていったほうの弟子連中は途中でどうなったか。どこかしことなく江戸中残らずの木戸が、もう閉《し》まってしまっているのだということだった。
「それに戦《いくさ》はお師匠《しょ》さん四谷へおいでの時分から上野辺じゃ、もうそろ始まっていたんですってねえ」
薄黄色い灯の中でひとしお顔を青白くしながら、やっと手足を拭いて坐った小糸が、いった。
……そういえば思い当る、九段からあのお壕端かけてかえりはことに錦布《きんき》れの薩摩侍が大ぜい殺気立っていたっけ、このごろ毎度のことだから気にも留めていなかったし、それにこっちは師匠のことで一杯だったから、久保本へ寄っても世間話ひとつするでなくかえってきてしまったのだったが、それではもうそんな差し迫ったことになってしまっていたのか。広小路の盛り場の今夜点していないわけが、いまにしてようやく肯かれた。同時に四谷の師匠のところへだしてやった弟子たちの、首尾好く先方へ着けたかどうかをおもってみた、寄席へでかけていった弟子たちの安危とともに。
「官軍が勝ったともいってますし、公方さまのほうがどうだともいってますし、そこの魚屋さんの前では大ぜいの人がてんでにいろいろのことをいっていてちっとも分らない」
語り継いで小糸は、
「でも大へんな騒ぎ、聞いていて私ブルブル身体が慄えてきたわ」
意味あり気に圓朝のほうを見ると、
「だってもう焼けてしまったっていうんですもの」
世にも寂しい顔をした。
「ド、どこがよ、どこが焼け……」
キッと相手を見守った。
「……猿若三座が」
いよいよ寂しい顔をして、
「吉原も、魚河岸も、このお江戸の豪儀なところはみんな坊主が憎けりゃ袈裟までだって、片っ端から薩摩のお侍が、焼き、焼き棄ててしまいましたとさ」
さも口惜しそうに目を湿《うる》ませた。さすがに生え抜きの江戸育ちの、憤ろしさに抜けるほど白い襟脚《えりあし》が止む景色なく慄えていた。折柄またパチパチパパパパパと続けざまに小銃の音が弾《はじ》けてきた。そして、消えた。
「……」
黙って圓朝は唇を噛んだ。いつ迄もいつ迄もそうしたまんまでいた。胸かきむしられるような憤ろしさに、自分もまたどうにもこうにもやり切れない思い。希《ねが》うことならいま籠釣瓶の鞘払って、床柱といわず、長押《なげし》といわず、欄間といわず、そこらのもの片っ端から滅多斬りに斬りまくってしまいたいくらいだった。まさかにそれもできないで、ジッとこうやっている圓朝の膝頭はしきりにワナワナ慄えていた。めもけ[#「めもけ」に傍点]に雨が屋根を叩いてきた。それだけが唯ひとつのたよりある現実として身近に大きく聞こえていた。
「いまに江戸中が火の海になるともいいますし」
また小糸がいつになく口早に、
「大砲《おおづつ》で権現堂の堰を壊してお江戸を水浸しにしてしまうともいいますし……聞いていて私、何だか自棄《やけ》になりそうで困ってしまった」
幾度か、しなやかな指で瞼を押さえていた。
「ま、しかし」
やがてのことに圓朝は、
「随分いろいろいうだろう、世間は。どこ迄がほんとうだか、どこ迄が嘘だか、いってる本人にさえ、まだ分ってはいないのだ。それを、いちいち真《ま》に受けて考えつづけてみたところではじまらない」
ネ、そうだろうとばかり顔を見て、
「だからもう戸閉りを厳重に、火の用心をよくして。今夜はきよ[#「きよ」に傍点]もいっしょにここへ寝かしておやんなさい、お前の傍へ」
きよとは女中の名前だった、大きく戦《おのの》きながらうずくまっているほうへ目をやった。
「分りましたじゃすぐお床を」
やっと瞼へ押しあてていた指を離して、
「きよや、じゃお前もすぐお前のお蒲団を持ってきてここへお敷き」
こう命じた。
やっといくらか元気づいてきよが次の間へ立ち、小糸が戸棚を開けて真紅な夜具をだしはじめたとき圓朝は、台所からもうひとつ小さな手燭へ灯を点して持ってきた。
「万一のときのことを考えて私は二階に置いてある書きものの始末をつけてくるから」
こういって、
「すぐ下りてくるけれど、構わないから先へお前たちは寝ておしまい」
手燭片手に、そのままミシミシ音させて梯子段を上がっていった。また小銃が、乱れ打ちに聞こえてきた、「ヒ、人殺し」。そのあとヒイーと尾を曳いた異様に甲高い若い女の叫びといっしょに。車軸の雨の中走りゆく六、七人の足音が、にわかに乱れた。
二階の最前の部屋へ入ってペタンと坐り、傍らへ手燭を置いたとたん、裾風でだろうか、音もなく灯は消えてしまった。
鼻をつままれても分らない真の闇。雨で湿《しっ》けた、生乾《なまがわ》きに似た壁の匂いがムッと鼻を衝いて、また小銃が
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