ろにおいても。
 そうしてそのこと唯ひとつが、およそ圓朝にとっては生きていく上の喜び愉しみ苦しみ悲しみあらゆるものではあったのだった。
 小糸謂うところのどうにも手のつけられない機嫌の悪い処置振りをしては、やがてその二階で「鏡ヶ池操松影《かがみがいけみさおのまつかげ》」江戸屋怪談の腹案を纏めた。「座頭浦繁《ざとううらしげ》」の怪談をこしらえ上げた。
 まだ高座へかける迄には一年以上もかかりそうだったけれど、とまれそのそれぞれの労作をおえたことだけでひたすら圓朝は嬉しかった。前にもいった通り、その書き物をおえた一瞬間のほうが上演をおわったときよりも、あるいは喜びは大きいといってもいいかも知れない。同時に「おみよ新助」のことにして「牡丹燈籠」のことにして作品の出来不出来より作者自身の筆の馴れ、ドッシリと腰の坐り具合の感じられてきたことをいよいよ喜ばないわけにはゆかなかった。だけにひと仕事おわると、それ迄の何日かの不機嫌の取返しのように心から圓朝は、小糸の上をいたわった。慈しんでやった。
 そうこうするうちにまたそれから一年目の圓朝三十歳の初夏《はつなつ》がきた。慶応四年だった。いよいよ世間は騒々しくなってきていたが、いよいよ薄気味悪いほど寄席のお客は増えていた、いわんや圓朝の真打《とり》席においておや。
 そうした中でかかさず圓朝の、勤めていることが二つあった。ひとつは恩人桂文楽へ何かにつけて心からなる尊敬を忘れず、報いていること。もうひとつは初代圓生の墓参を、いよいよ欠かさず、していることだった。
「ねえ白玉を買わせにやってくれ」
 涼しく川の見える縁側へ腰を下ろして、きょうもたった今、初代のお墓詣りからかえってきたばかりの圓朝が、いった。表から上がらず、そのまま小庭のほうへ廻ってきてしまったのだった。薄曇りしている庭にきのうの朝売りにきたのを小糸が買った大輪の朝顔がひとつ、真っ白な花を咲かせていた。汐まじりのした水の匂いが、快く鼻を掠めてきていた。
「……」
 微かに目で肯いて、スラリと麻の葉つなぎの浴衣を着た小糸は台所のほうへ立っていった。すぐ女中にいいつけてかえってきた小糸の後から、萬朝がそそくさと愛嬌のある汗の玉だらけの円顔を見せてきた。
 もう萬朝ではない、亡父の名をくれてやって二代目橘屋圓太郎、いよいよ先代写しに高座可笑しく、先代写しに日常そそっかしくはなりまさってきていた。汗っかきの具合もまた同断だった。やがて明治御一新後十年、高座に乗合馬車の御者の真似して喇叭《ラッパ》を吹き、今にラッパの圓太郎と諷わるるはじつにこの萬朝だったのであるが、それはまだまだ後のお話。
「師匠、四谷の大師匠が倒れちまったって。いま文楽師匠から報せがあった」
 口を尖らして圓太郎がいった。
「エ、いつ」
 思わず圓朝は立ち上がった。
「五、六日前らしいや、中風らしいって」
 圓太郎はクルクル目玉を動かした。
「で、どうなんだ一体その後の様子は」
 もどかしそうに圓朝、急き立てた。
「そ、それは」
 いよいよ目玉をクルクルさせて、
「お、俺に聞かれても……だって師匠ただ文楽師匠が家《うち》のほうへそういってきただけなんだ、後は野となれ……」
「何だえ野となれとは」
 きょうばかりは圓朝、いつになく恐しい顔をした。ハッタと睨んだ。
「ご、ごめんなさい、大師匠が何も野となれといったんじゃねえんだ、俺、後はといったもんだからついその後、野となれとこう……すみません、勘弁して……」
 オドオドしながら何べんも何べんも頭を下げた。
「分った分りました、それはいいから」
 少し可哀想になってきてまたソロリと縁側へ腰を下ろしながら圓朝、
「で、お前、これもお前に聞いても分らないかもしれないけれども、あの、何は行ってるんだろうね何は」
「誰です」
「あの、ほれ……圓太だよ」
「……」
 黙って圓太郎、首を振って、
「あの、それだけは特別に最前文楽師匠いっておいででしたよ、師匠」
「エ、何だって」
「何しろ圓太の野郎が行ってねえから、余計お前ンとこの師匠《おやじ》に早く報せにきたんだ、薄情野郎あン畜生め、四谷が倒れたと聞いたらそれっきり影覗きもしやがらねえって」
「行こう、圓太郎」
 また急にプーイと立ち上がって、最前から話の様子をホロホロした表情で聞き入っていた小糸のほうを振り向くと、
「聞いての通りだ、白玉どころじゃない、すぐ私はこれを連れて駈け付けよう。サ、何でもいいから仕度をしてくれ。圓太郎、お前は駕籠を二挺みつけてくるんだ」
「合点で」
 奴凧のように頓狂に両袖丸めて圓太郎は、真一文字にバタバタ座敷を駈け抜けていった。


     四

「……」
 ゲッソリと変り果てた師匠圓生の寝顔の上へ、黙って圓朝は顔をやった。ジッとみつめていた。
 ボコンと頬が落ち込み、顔全体にいやあな[#「いやあな」に傍点]赤ちゃけた血が上り、一面の無精鬚の中に相変らず大きく盛り上がっている鼻ひとつ、まるで生きながらの墓標のように侘びしかった。
「……」
 情けなさにたちまちククと含《こ》み上げてくるものがあった。じつはここへくる途中、青山の久保本まで大廻りして、あらかじめ女主人と下足番の爺やとから、発病前後のことを聞きただしてきたのだが、師匠の一家はいま聞きしに勝る惨憺たる体落《ていたらく》だった。少しもしらなかったが師匠は下座《げざ》のお仙という三十がらみの渋皮の剥けた女とねんごろになり、それを根が苦労知らずの嬢様育ちのお神さんはカーッと一途に腹立てて、実家へかえっていってしまった。ところがそれを聞くと今度は下座のお仙が、お神さんが、でていっておしまいなすったあとへ、ヌケヌケと私が直るなんてとんでもない、お神さんにすまないから私もお暇をいただきますと、どんどん暇をとり、手切れをもらって別れていってしまった。隠然とした長老とはいえ、もう派手な人気もなし、大した先々も望めないと見てとって要領のいいお仙は、手廻しよく見切りをつけていってしまったものらしかった。その気落ちがしてしまったためだろう、ひと月あまり呷りつづけた自棄酒《やけざけ》のあと、バッタリ倒れて、とたんにこんな病気がでてしまったのだった。
 それにしても――。
 怪しからん奴はあの圓太で、前からこのお仙とわけがあったらしく、とすると今度体よく見切りを付けさせたのも奴の指図だったのだろう、師匠が倒れたと聞いてもてんで[#「てんで」に傍点]顔出しもしてこないばかりか、早いところお仙と二人随徳寺を極《き》め込んで旅廻りにでもでてしまったものらしく、血眼になって例の船宿の婆さんが久保本へも圓太の行方を探しにきたということだった。従って、もういまの四谷の家にはおしのどんもお嫁に行ってしまっていなかったし、目っかちの雇い婆さんが一人、病人の世話をしているばかりだった。
「……」
 ときどき烈しく息を吸い込んではまたフーッと吐き出す師匠の顔を見ながら、打って変って荒涼としてしまっている部屋の中を眺め廻して圓朝は、秋風|荒《すさ》ぶ人生終焉図の見本を目のあたり見せつけられているような気がした。お神さんなく、おしのどんなく、今や師匠はこの姿――昔ながらのものとてはあのいつかの朝自分が突き落とされた池ばかりだった。なつかしそうに圓朝は、はるかの池のおもてへ目をやった。真っ青な萍《うきくさ》が一杯伸びて、音立ててその上を吹き渡っていく真昼の風があった。その池のへりにポカンと圓太郎が佇んでいた。ありし日の自分の姿をそこにみいだして圓朝は、何ともいえない感傷にさそわれていくことが仕方がなかった。
「……」
 気配に、師匠が目を開けた。昔ギロリと睨まれたあの目とは打って変った寂しい空ろのものだった。
「ア、師匠」
 思わず圓朝は声を掛けた。
「……」
 しばし目を疑っているもののようだった。光りなき目がしきりに圓朝の上を、とつおいつしていた。
「ア……ア、圓……朝……」
 とぎれとぎれにこれだけいった、ろれつ[#「ろれつ」に傍点]の乱れた微かな声で。世にも懐しそうにガクガクンと顎が動いた。
「……」
 それだけでもう圓朝は胸がいっぱいになってしまった。許して、許してくれている師匠が、ポロポロ涙がこぼれてきてならなかった。
「師匠、ねえ師匠、圓朝です、お見舞に……お見舞に伺いました……どうか……どうか昔の私の至らないことは……」
 耳許へ口押しあててこういった。そういううちも、果てしなく涙はこぼれてきていた。
「……」
 そのたんび師匠は顎を動かした、分って、ああ分っているよ、いるともさというごとく。それがまた圓朝のことにして、どんなにうれしかったことだろう。
「あの……あの……お前」
 そのときだったあの[#「あの」に傍点]があお[#「あお」に傍点]と聞こえる発音で、やがて師匠は喘ぎながらこういった。
「あの……あの……圓、朝や、むか、昔のことは何も……かも……」
 またたよりなく二、三度顎を動かして、
「ゆ、許してくれ……」
「モ、もったいない、な、何をおっしゃ……」
 弾けて飛び上がらんばかりに、ヒシと師匠の身体へむしゃぶり付いてゆくと、
「師匠から……師匠から……そんな私お言葉いただいてしまっては……」
 ギュッとギューッと力いっぱい抱きしめながら、
「とんでもない、私の……私のほうこそ……小さいときからいろいろ手塩にかけて頂いていて」
 もう恥も外聞もなくおろおろおろおろ[#「おろおろおろおろ」に傍点]泣きだしてしまっていた圓朝だった、なるほどいつか文楽師匠のいってくれた通りの師匠と弟子との人生ではあることよなとおもいながら、そうおもってまたひとしお烈しく抱きしめながら。
「……」
 黙って首を振った。苦しそうな、とぎれとぎれの声でいった。
「だ、だってお前、お前に煮湯を飲ませた圓太なんかを引き立てて……そのまた圓太に面目ないよ、この私が……私が煮湯を飲まされて……子罰《こばち》が、弟子罰《でしばち》が当ったんだお前という。ごめん、ほんとうにお前、ごめん……」
「お止し……お止しなさいってば、ねえ師匠。いやだいやだ師匠そんなことおっしゃっちゃ。詫《あやま》ったりされちゃ私は悲しい。かえって悲しい。師匠師匠、ねえ師匠……昔のやっぱり昔のやかましい師匠にかえっておくんなさい、どうかお願いだ、ねえ師匠お願いなんです」
 取りすがったまんまでいる師匠の身体を何べんも揺った、オイオイ声立てて泣きつづけながら。
 と見ると師匠も泣いていた。大きな鼻の周りへ、キラリ条《すじ》引いた涙を光らして。いつか庭から上がってきていた圓太郎までが、そこの畳へうつ伏せに、貰い泣きしていた。
「ねえねえ師匠」
 やがて涙の顔を袖で拭うと、やっと己を取り戻した圓朝がやさしい笑顔を見せて、
「お願いです元気になって。もういっぺん元気になって三遊派のために働いて下さい。おかげで圓朝、いいえもうみんな師匠のおかげです、ほんとにおかげで弟子もたくさん増えてきました、今度こそ……師匠も許しておくんなすったし、ねえもういっぺん元気で働いて下さい、圓生圓朝親子いっしょに今度こそほんとに働きたいんです」
 こういって骨だらけの師匠の手を触りあて、満身の力を、心を含めて握った。握りしめた。微かだけれど握り返してくる師匠の力が感じられた。それだけでもう何もかも満足。五輪五体のことごとくが、惜しみなく清い涙で洗われていくものをおぼえた。
「じゃ師匠、ほんとにくれぐれも力を落とさないで養生をして……。ねえ頼みますよ早く元気になって下さいよ。いまかえったらすぐうちの若い者を二人ばかり手伝いに寄越しますし、私もまた明日《あした》にでもやってきますからね。じゃ師匠お大事に。あの、うちの若い奴がきたら構わず何でも婆やさんからいいつけて貰ってうんと働かせて下さいよ」
 もう一度、また名残りは尽きじという風にしげしげと、またしても涙で一杯の師匠の顔を見守って、やっとそれからその場をあとにした、まだ手拭で涙拭き拭き後くっ[#「くっ」に傍点]付いてくる圓太郎といっしょに。
 苦しそう
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