、砲声が、ワッワッワーッというような何とも分らない大ぜり合いのような声々が、近まってきてはまた遠のいていった、狸囃子のそれのように。
屋根叩く川面叩く大雨はいよいよ烈しくなりまさってきて、まさしく天の底が抜けるかとばかり、そういっても滝津瀬に似た、どんどん[#「どんどん」に傍点]に似た、このすさまじい土砂降りを何としよう。
「……」
真っ暗な部屋に坐りつづけたまんま圓朝はいま、自分の周りと同じように、自分の心の中もやっぱり真っ暗であることを感じた。真っ暗三宝とはこのことだろう、一寸先は暗《やみ》というが、どういたしまして前後左右がことごとく暗で、自分自身もまたこの暗といっしょにこのまま溶けてなくなっていってしまいそうでならなかった。
書きものの始末をと嘘をいって上がってきてしまったけれど、じつは女たちの前であまり取り乱している自分を見せたくなく、何よりひとりしばらく心を休めて、自分というものを取り戻したかったからだった。
……落着け落着け。
……落着けったら。
……みっともないぞオイ、圓朝。
……オイ、ほんとうにオイ、しっかりしないか。
烈しく心にこういい聞かせた。ややしばらくしてウムとやっといくらか手応《てごた》えのある心の声の返事だった。
……明日が分らないって何もお前一人じゃないんだ、この江戸中の人たち皆が分らなくなっているんだ。
……だとしたら落着け、まず落着け、まず落着いてこうしたときにこそ、してこの上の御所存というものをハッキリさせてみるがいい。
……。
なるほどなあ――とややあってさらにまた、心の声の大きく肯いてくるものがあった。だんだん平静を取り戻してきたのだった。闇に闇を見据えていると、犬猫ならでもだんだん周囲の所在が朧に見えてくるようにいま圓朝も心の闇の中に薄々行く手の何ものかの見えだしてくることを感じたのだった。今少し咽喉の渇きを感じだしてきたくらい、圓朝は落着きを取り戻してきた。手|触《さぐ》りで床の間の水さしを掴まえた。口のほうから持っていき、ククククと喇叭飲みにした。いたいた心が鎮まってきた。ばかりか、ジーンと澄んでさえきた。
……三座の芝居《こや》は焼けてしまった、としたら緞帳芝居だって焼けたろうし、焼けない迄も三座の役者たちが立て籠ってしまうだろう、一時凌ぎに。
幸いにして世の中にまたいつか太平の風が吹いてきたとて、昼間自分がこの座敷で小糸相手に夢見たような芝居小屋を買い切っての大見得なんか、とても五年や十年では、切れそうもなくなってしまった。
それどころじゃない、米が買えるか、醤油が買えるか、食ってゆけるか、ゆけないか、生きるか死ぬかの見極めさえ、てんで[#「てんで」に傍点]いまではめちゃめちゃになってしまっている。
駄目だ、もうあんな夢は――。
だが――。
と、しずかに、心で心へ訊き返されるほど圓朝は、今少し前とは別人のごとく、深沈としたものを身に付けてきていたのだった――。
だが――誰もが食べていかれないとしたときお前は一体どうしよう、何をもて生き抜いていこうというのだ。
……何もない、かもない。四方八方、よしや目路のかぎりが再びいつかの大地震のときのよう大焼野原になってしまったとて唯ひとつ私には、信ずる稼業があるばかりだ。
何か、それは?
噺――噺だ。
好きで、命を細らせてまで打ち込んでなったこの落語家という商売だ。だから自分は落語家以外の何者でもないし、同時にまたそれほどしんから真実賭けたるところの私にとっては尊いありがたい落語家稼業なのだ。
ああ背立ち割られ鉛の熱湯|注《そそ》がれようとまま[#「まま」に傍点]よ、いのちのかぎり根《こん》かぎり、扇一本舌三寸でこの私は天地万物あらゆる姿を写しいださいでおくものか。だからもしその落語家稼業が立ちゆかなくなるという末世末法の世の中がきたら、そのときこそ、潔く自分は火中の蓮華と散りゆこう。
……ようやくにして圓朝の心の声は、かくもまた飛躍的にさえなりまさってきた。しかも火と炎と燃えながら、ハッとそのとき自分で自分の言葉に打たれるものがあった。扇一本舌三寸という自分の言葉の地雷火を、いやというほど踏んづけてしまったのだった。
扇一本舌三寸――そう、そうだった、いつの間にやらこの自分は、万事万端あまりにも花やかに花やかにと心がけ過ぎた結果、扇一本舌三寸が絶対金科玉条の落語家世界から、いつか道具の鳴物のと横街道へとよほど外れてきてしまっていた。まさしく邪道とはこのことだろうし、まだその上に芝居小屋借りて、唐錦めく大風呂敷までひろげようとは。
(師匠圓生のあのころの悪口は別としても、柳枝さんの苦が苦がしくお思いなすったなんてことはある程度まで決して悪くいえないかもしれない)
この際だ、止そう、すべてを。棄てよう、すべてを。
いままでの一切の華美華美《けばけば》しかった自分の表飾りを、残らずかなぐり棄ててしまおう、芸も、暮らし向きも、扮《こしら》えも――ただひとつ小糸をいとしみ、いつくしむことだけは、天地の神々にお許しいただいて。
もうおかげで太神楽《だいかぐら》然としたあの装《なり》にも堪能して、さまでの未練はなくなってきてしまっている。
そして、扇だ、一本の扇だ、舌三寸だ、ただそれだけの正直な武器《えもの》で、正直な生活のドまん中から立ち直ろう、立ち上がろう、あくまで活き活きと進軍していこう。
扇一本で噺の名人の域に達して如実に見せるもののあいろ[#「もののあいろ」に傍点]はさぞや辛かろう。舌三寸で人情情景さながらに描き尽すに至る迄は、まだまだまだ今までの何十何百倍もの苦労が要るだろう。
いい、でも、いい。
あえて、あえて、歯をくいしばり、唇を噛み、両の拳握りしめて、それを押しつづけていったなら、この若者不憫と必ずや神々にも照覧あって、明日の世の中がどう変ろうと、一時は塗炭《とたん》の苦しみに遭おうと、やがてはまた再びしゃーいしゃーいと下足番の声なつかしき大入り客止めの寄席の春が、再びそこに開花しよう、展開されよう、その念願の春立つ日まで、苦しんで苦しんで苦しみ抜いて、きっと私は勝ち抜いてやろう。
いま十何年ぶりで圓朝は純情小圓太の昔に還った思いがした。いや、少なくともあの純情という紺絣を取り戻し、抱きしめ、初々《ういうい》しく身に着けている、何とも晴れ晴れしい心地がした。勇気百倍。凜々としたものが、はち切れそうに身体全体へ満ち満ちてきた。辺りの闇を眺め廻した。
それにしても……それにしてもこの自分は、顧みればいままでたいていの身にふりかかる災難の火の粉を常に真心《まごころ》の纏《まとい》もて縦横無尽に振りしだいては、ひとつひとつそれを幸の景色にまで置き変えてきていた。悪しと身の毛を殺《よだ》たせたことは、のちにはこれことごとく次なる幸福へ到る段階のものばかり。今夜またこの江戸中がほとんどどうなってしまうか分らないという一大動乱までが、はしなくもこの自分の芸の上に、いま大きな大きないい変り目を与えてくれている。しかもその変り目、一番目から二番目への、あのチョーンという木頭《きがしら》のそれよりもっと頼もしい素晴らしい変り目ではないか。
私は、いや、私はじゃない、すべて愚かなほど一事に精魂傾け尽している人たちには、あらゆるいけない凶《わる》いことも、側からどんどん吉《よ》いことに変えられていくのだろう、まるで手品師《てづまし》が真っ白なまま函へ入れた※[#「米+參」、第3水準1−89−88]粉《しんこ》細工の蓋《ふた》とればたちまち紅美しき桃の花一輪とは変っているように。
心だにまことの道にかないなば、祈らずとても神や守らん――ほんとうにほんとうだった、この歌のこの心持のほどが。
豁然《かつぜん》といま圓朝は心の壁が崩れ落ち、扉が開かれ、行く手遥かに明るく何をか見はるかすの思いがした。いままでとても幾度か幾度か心に黎明はかんじたけれど、あれらをかりそめの町中での夜明け空とするならば、これは比べものにも何にもならない夏草しとど露めきて百花乱るる荒漠千里の大高原に、真ッ裸になって打ち仰ぐ大日輪の光りにも似たるものよとおもわないわけにはゆかなかった。
とても言葉でいいあらわせない感銘だった、感激だった。
ポトリ涙が目のふちへ滲んだ。
と見る間に溢れた。
あとからあとから流れだしてきた。
いつ迄もそれが止まらなかった。
果ては顔中がベトベトになってしまって、尚かつひっきりなしにはふり[#「はふり」に傍点]落ちてくるもののあることが仕方がなかった。
いつか音に立てて圓朝は男泣きに泣きだしてさえ、いた、表の、いよいよ風まじえ、暴れ、哮《たけ》り乱れ鳴る小銃の音すら遮って降りつのりまた降りつのる底抜雨のざざ降りに、今ぞ根こそぎ快く身をも心をも洗い尽されるようなものを感じながら。
底本:「小説 圓朝」河出文庫、河出書房新社
2005(平成17)年7月20日初版発行
底本の親本:「小説 圓朝」三杏書院
1943(昭和18)年4月刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※編集部のつけた各章のサブタイトルは省きました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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