、無理でねえ、至って人間らしい了見の持ち方なんだ。お互いに神じゃねえ、仏じゃねえ、詮ずるところ凡夫だからなあ」
「…………」
文楽のいう言葉の意味がまるで圓朝には分らなかった。しきりとけげんに悧巧そうな目をまたたかせていた。
「おい圓朝さん」
また手酌で一杯やって、
「師匠と弟子っていうものはな、必ず生涯にいっぺんは喧嘩をするものなんだ。悲しいけれど、そういうめぐり合わせにできているものなんだ」
「…………」
いよいよ圓朝には分らなかった。いよいよボンヤリ文楽の顔を見ていた。
「犬猫だってそうだ、人間の餓鬼だってそうだ、無邪気な子供の時分はわけもなく可愛いけれどよ、これがちっと分別がついてきて元服でもする時分にゃ、妙にひとつところ小生意気で憎たらしくなってしまうだろう」
「…………」
コクリと圓朝は肯いた。
「ところがだ、その時期を越してすっかり大人になってしまうとまた別の親しみって奴がでてくるだろう」
「…………」
再び圓朝は肯いた。
「つまりそれと同じなんだ、弟子と師匠の間柄も。弟子が物心ついてきだすと、妙に師匠の目からは小生意気で、事ごとにこの野郎この野郎ととっちめたくなってくるものなんだ」
「…………」
「それとたいていの師匠って奴ァ自分そっくりの芸さえ演っていてくれりゃ、それでわけもなく嬉しがっているものなんだ、その弟子が売れようと売れめえと。ところがそれが弟子が何とか一流を編みだしたりしてくる、そうすると妙に自分というものを見棄てやがったような気がしてきて……サササササお前さんのほうじゃさらさらそういう気じゃなくってもよ、師匠のほうじゃどうしてもそう考えずにゃいられなくなるんだ。なるんだから仕方がねえ」
「…………」
「ほんとのことをいや親は、決して自分の忰なんて大きくならねえで、でんでん[#「でんでん」に傍点]太鼓に笙の笛てな子守唄うたって生涯こいつと暮らせたらと考えている。煎じ詰めたところ本音だろうそれが」
「…………」
大きくまたひとつ肯いた、やっと少しずつ文楽師匠のいう意味が分ってくるような気がした。そういえば昨夜《ゆべ》うちの師匠、親に似ぬ子は鬼っ子だって世にも腹立たしそうにいったっけ。
「な、だろう。だとしたらその師匠と弟子と離れてきたってことは何もお前がそう深く考えるほどの事柄じゃねえんだ。マ、そういったってそりゃつい考えてはしまうだろうがよ。とにかくひと口にケリをつけちまうなら、つまりそういうことになるってものは、つまりそれだけお前の芸の身体が大きくなってきたってことに他ならねえんだ。だから昔師匠のこしれえてくれた器《うつわ》じゃ、お前ってものはもうハミだすようになっちまったんだ。だから拠所《よんどころ》なく他《ほか》の器へ入る。それがまた師匠にゃ無体《むてい》癪に障るとこういうわけなんだ。だからくどくもいう通り、生涯、喧嘩のしっ放しじゃいけねえが、出世を目の前に控えての喧嘩って奴ァ、じつは師弟の間じゃ御定法なんだ。いわばひと歩《あし》出世が近付いたと喜んでもいいくらいのもの……」
「ま、まさか」
「いやほんとだよ圓朝さん。あのほれ、死んだ小勝さんなあ、あの人なんぞお前の大師匠の初代の圓生師匠の弟子だがやっぱり売りだす時分にゃ師匠と大喧嘩してよ。それもこいつはまた乱暴な話だ。朋輩のお弟子さんたち五、六人と束になって、師匠、お前さんの噺し口はもう古くなったから、私たちァ我流でいきます暇を下さいって、弟子のほうから師匠を破門の談判にいった。お前の大師匠は名代の大人しい人だったが、怒るよこりゃ。それでも根が大人しい人だから、その弟子たちにはウムウムとわかってやっていたが腹ン中は煮え繰り返るようだったんだろう、そこへしらずに師匠の小さい娘さんが何か貰いにいったら、馬鹿ァといきなり焼火箸を叩き付けた」
「…………」
「さてそれほどの事をしてでていっちまった小勝さんたちがだよ、さてすっかり売り出してしまったとなったら、どっちからともなく歩み寄ってきてサ、初代の死ぬときなんざ、お前の師匠よりもかえって小勝さんのほうがよく面倒をみただろう。初代もまた心から喜んで小勝や小勝やってその介抱を受けて死んでいきなすった」
「なあるほど」
いよいよ圓朝に分ってきた、文楽師匠のいおうとするところが。
「おっとまだあるんだ圓朝さん、大事な話が」
明るく笑って、
「うち[#「うち」に傍点]の師匠、先代文楽だ、お前さんは知るめえが本芝にいて、大阪で文治さんの聟になってその四代目を襲いでよ、それから江戸へかえってきて楽翁になったり、大和大椽になったりした人だったが、巧かったね全く。江戸噺と上方噺と使い分けのできるどうして素晴らしい名人だった。その、うちの師匠がだ、よくこういっていた。大ていの師匠は弟子が売れるのを望んでいる、が、しかしだね、自分より弟子のほうが売れるのまでは望んでいねえって。味わってみねえ。ねえおい、いかにも人間らしい弱味のある趣の深い言葉じゃねえか。俺なんかいい塩梅にいまでも昔師匠の売れたほどは売れていねえし、また多少なりとも売れてきたのは師匠の死んだあとだったから憎まれねえでもすんだけれど……」
もういっぺん笑って、
「つまりこの師匠の心持、つまり凡夫の心持って奴を、よくよウく圓朝さん、いま考えてみる必要がありゃしねえか、そうしたら……そうしたらお前何にも……」
「分り……分りました」
満面をかがやかして圓朝は、勢いよく取り上げたお銚子にありったけ[#「ありったけ」に傍点]の感謝を含めて文楽のほうへ。
サバサバと、すがすがと、ほんとうに気が晴れ晴れと大きくなってきた。またひとつ、いや二つ三つ、ことによるともっともっと余計いっぺんに年を取って悧巧になれた感じだった。
「だから、だからよ、お前」
満足そうに酌いだお酒を口へ運んで[#「運んで」は底本では「連んで」]、
「いまの喧嘩は仕方がねえ、それ川柳点にもあったじゃねえか、死水《しにみず》をとるは兼平《かねひら》一人なりって、小勝さんじゃねえが一番おしまいの土壇場へいって真心で師匠に尽しゃそれでいいんだ。早桶ン中へ入って人間の偉い偉くねえは分るっていうけれど、弟子と師匠の間柄もトコトンのまたトコトンまでいってみて初めていい弟子悪い弟子が定められるんだ。それ迄ゃ何もお前……」
「……ハイ、ハイ、ありがとうごさんす、おかげですっかり……すっかり分りまして……」
並べられているぶつ切りの鮪の皿の中へ顔を突っ込んでしまいそうに圓朝は、丁寧な丁寧なお辞儀をした、そうしていつ迄も上げなかった、きょうはぜひともかえりに初代の、大師匠のお墓へ廻ってこの一切を報告しようとうれしくおもいながら。とたんに、この薄暗いガランとした小大橋《こたいきょう》の土間の隅々までが、いまにわかに圓朝にはいちどきに何百本もの百目蝋燭を点し立てたかのよう、絢やかなありったけに見えだしてきてならなかった。
……めっきり了見が大きく持てだしてきたのだろう。それから間もなく圓朝は、聞き込んだ二、三の材料を手がかりに今日も名高いあの「怪談牡丹燈籠」を書き上げた。
牛込のほうのある旗本が、昔無礼討にしたものの忰をしらずに下僕に雇い、のちにワザとその者に討たれてやったというそのころあった実話の上には、いまの師匠圓生と自分との上に見る恩愛相克の傷ましさをマザマザと感じさせられ、そこに他人事ならぬ自分の人生というものをみいださずにはいられなかった。また先妻が死に、その妹を嫁に迎えたら、婚礼当夜ポックリと死なれ、不忍の池近くへ庵を構えた男が夜な夜な二人の亡魂に苦しめられるという、これもそのころあった実話の主人公は北川町の飯島喜左衛門とて圓朝贔屓の大きな玄米《くろごめ》問屋さんだった。
北川町一帯が住居で、周囲の掘割の中に藻の三尺も生えた大簑亀がいたり、巨万の富が蔵に入れられてあって誰かがひと足でも土蔵へ踏み込むと仕掛でガタガタ鳴りだすようになっていたりした。何より圓朝はそうした御大家の風物詩に心を魅かれ、創作慾をそそられた。お露の名はまさしくそこの先妻の名前だった。飯島の名前は採って以而《もってして》、牛込の旗本のほうの名前にした。その上に支那の「剪燈新話《せんとうしんわ》」の中の牡丹燈記や、それに材を得た浅井了意の『伽婢子《おとぎぼうこ》』や山東京伝の『浮牡丹全伝』をたよりに、よろしく膨大の譚を夢中で書き上げてしまったのだった。が、結果は何よりあのお露お米がカランコロンの下駄の音物凄き怪談噺が、およそ江戸中の評判になってしまって、若き圓朝の名は圧倒的に盛り上がってきた。
この「牡丹燈籠」の腹案を練っている最中圓朝は、かねて贔屓の新吉原金太郎武蔵の主人に連れられて成田詣りにでかけ、そのとき圓朝は護摩料を入れた細長い桐の箱をかついで供をしたのだったが、道中あまりにも構想に全魂を傾け過ぎていたため、三べんも宿場|立場《たてば》の茶屋茶屋へこの大切な桐の箱を置き忘れた。そういう挿話ものこされているのであるが、それはここでは詳しく説くまい。往昔《むかし》の戯作者の口吻《くちぶり》になぞらえ、「管々《くだくだ》しければ略す」とでもいわせて置いてもらおうか。
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第五話 五彩糸
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一
「牡丹燈籠」はもて囃された、ほんとうに。道行く子供たちがカランコロン萩原さんお化けーッと奇妙な手真似をして遊ぶほど、満都に評判が高まってきた。
「おみよ新助」や「累双紙」もいよいよ磨きがかかってきた。初演当時のただ目新しいだけとは事変り、手振り身振り鮮やかに、運びおもしろく、鮮やかに「芸」としても尾鰭というものがついてきていた。
二十三、二十四、二十五歳と真打席のない月はほとんどなかった。
弟子たちも目に見えて増えてきて、もう十人ちかい屈強の男たちが絶えず代地の家に寝泊りしていた。いくら物価《ものなり》の安かったそのころでも、働き盛りの若い者をこうたくさん置いていてはたまらない。かてて加えて人気の昇るに従ってつきあいは日一日と派手にしなければならない。反対にお台所のほうは日一日と苦しくなってゆくことが仕方なかった。四方八方、借金だらけ。それをひとつ返してはまた二つ借りるという風に、苦肉の策をめぐらしつづけていった。
「苦しいだろうお前借りにきなよ」
いつもこういいだしては快くお金を貸してくれたのは文楽師匠だった。
「いいよいいよ返さなくても、それよりときどき俺が座敷を頼んでそのお銭《あし》で引いていくから、そのほうが返しいいだろうお前だって」
さらにこんな分ったことさえもいって、絶えずなにがしかを融通してくれた。どんなにどんなに助かったことだろう、それが。かつて師匠圓生のいる四谷のほうへ足向けては寝ないと誓った圓朝は、文楽師匠住む中橋のほうへもまた足を向けては寝られないこととなってしまった。
そうした苦しい真っ最中に、老衰で父の圓太郎が、枯木の倒れるようになくなった。つづいて兄の玄正がなくなった。これは僧位進んで小石川極楽水の是照院へ転住した。永年の思いがかなってひと安心したことが発病させたらしく、患いついてすぐ代地の家へ引き取ると、充分の手当をしたのだけれど圓朝二十四歳の秋、とうとう命数尽きて帰天してしまった。晩年にはもう心から圓朝の出世を喜んでいただけ、どんなにか悲しまないではいられなかった。
父のといい、兄のといい、いまの身分以上の弔いをだしたので、いよいよお勝手元は苦しくなった。
年の瀬がきた。
去年の倍も弟子たちの増えていることはうれしかったが、それだけにこの暮れの餅代もまた倍。弟子は倍でも収入はまだ倍までにはかなっていず、ほんの少うし増えているばかりだった。すっかりその弟子たちに心づけをしてしまったあと、自分の家の春の仕度万端をすますと、大晦日にはお恥しいが圓朝、印袢纏一枚「何もかもあるだけ質に置炬燵、かかろうひまのふとんだになし」落語の「狂歌家主」をそっくり地でいく境涯
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