おしめえにもうひと言だけいって聞かせておいてやる。お前、このごろ我流で新しい噺をこさえて大そうな評判だな。結構なこッた。豪儀なこッた。だがな、圓朝」
 近々と憎さげに大きな鼻を寄せてきて、
「俺、俺の教えた通りの噺を演らねえような奴ぁ大嫌いなんだ。しかも手前《てめえ》は俺が甲州へ発った留守中、端席の真打なんぞ勤めて失敗《しくじ》りやがった。何かてえと俺の鼻明かそう明かそうとかかってる奴だから仕方がねえが、オイ昔から親に似ねえ罰当りァ、鬼っ子てんだぜ。人、面白くもねえ二度と圓生の弟子だなんてそこらへいっていいふらして貰うめえぜ、サ、これだけいったらもう用はねえ、帰れ帰れ」
 グイとまた睨み付けたが、
「汝《うぬ》。さっさと帰らねえと……」
 いきなり硯箱へ手をかけた。そこへ熱いお銚子を持った圓太がいそいそかえってきたがチラリ見て止めようともしなかった。
「あいすみませんお目障りで。ヘイ、すぐかえります、ヘイ、おやすみ下さい」
 挨拶もそこそこに圓朝は楽屋を飛びだした。
 ドーッとすぐあとで楽屋から笑い声がぶつけられてきた、面当《つらあて》がましく。

「ま、ま、ま、お待ち萬朝」
 楽屋へ暴れ込もうとするのだろう、恐しい勢いでバッタリ真正面から衝き当った萬朝を、ありったけ[#「ありったけ」に傍点]の力で圓朝はつかまえながら、
「いけないいけないいけないってば、萬朝」
 一生懸命頼んでいた。
「だって……だって聞いてた何もかも表で。わ、笑わしたなあこの私《わっし》なんだ。そ、そいつが元で小勇ン畜生め、手前の下手ァ棚に上げやがって、師匠にあんな恥ィかかして。ええ畜生。小勇も小勇なら大師匠もまた……」
 人間はどじ[#「どじ」に傍点]でも師匠思いの萬朝、身体中を怒りに慄わして猛り立った。
「でも……でも……お前」
 まだギューッと大きな萬朝の身体を抱きかかえたまま、
「いけない今夜は。今夜だけは勘弁しておくれ、この私に免じて。お前の親切は圓朝涙のでるほどうれしいけれど、いまお前が飛び込んでいったらせっかく納まった騒ぎがまた大きくなる。そうなると却って私が困る。ね、分ったかい、ねえ萬朝、分ったかい、分って……分っておくれよ後生だから」
 ややしばらくしばらくして、しっかりと圓朝のかかえている胴体が、ガタンガタンと大きく二つ縦に動いた。
「オ、ありがと。分ってくれたね。ありがとよ萬朝。いい子だいい子だ。よく分っておくれだったねえお前」
 子供にでも話すよう、やさしく涙に濡れた声で、
「でも、でも、お前にこんな芸のほかのことで苦労をかけるなんて、私が……みんな私が至らないからだ。しがない師匠を持ったためによけいな苦労をかけさせてねえ萬朝、ご、ごめん……」
「ト、とんでもない」
 めもけ[#「めもけ」に傍点]に大きな図体が動いて、
「お、俺のほうこそ、し、師匠が……師匠が……あまり可哀想で……可哀想で……」
 ワーッと萬朝は泣きだしてしまった。かかえている圓朝の手へ、たちまちボタボタ熱涙がふりかかってきた。おお、この涙の熱さこそ、愚かしい、しかし愛すべきこの一人の弟子が命賭けて己の上をおもうてくれている真心の熱さに他ならないのだ。そうおもうとき、ヒシヒシ身体中が、嬉しさ悲しさ入り乱れたものに締め付けられてきた。不覚の涙がホロホロホロホロ圓朝もまたあふれてきた。そうしてそれがはふり落ちた、今度は萬朝の肩のあたりへ。己の涙と萬朝の涙と、いや己の喜び悲しみと、萬朝の喜び悲しみと、思いを同じゅうしたこの師匠と弟子の魂と魂とは、今ぞ今身も世もあらずピッタリと触れ合い、溶け合い、抱きしめ合って、早春《はる》の夜更けのこの路上、いつ迄もいつ迄も悲しみ、嘆き、泣きじゃくり合ってはいるのだった。
 星が流れて、いつか雪風が。あかあかと灯の洩れている楽屋障子の彼方からはまた憎々しい高笑いが、流れてきた。


     五

 忘れているだろうか、私は師恩を。
 翌朝、すみだ川を前にした部屋で、トックリと自分の胸へ手を当てて圓朝は、考えてみた。
 ……昨夜のことをおもうとき、圓朝の心の中はドンヨリと重かった。水|温《ぬる》むといいたげないろをめっきり川面へただよわせてきているすみだ川の景色もきょうばかりは曇り日のよう暗く見えた。ホンノリとした青空さえが、果てしらぬ灰いろの帳《とば》りかと感じられた。
 この私の近ごろの「芸」のいろいろさまざまと小手の利くようになってきたこと、一にそれは師匠の薫陶のほかにはないではないか。
 雨降《あまふ》り風間《かざま》、しょっちゅうそればかり考えない日とてはない私ではないか。
 ほんとうに師匠なくして私にこうした「芸」の深さ苦しさ愉しさ、どうしてすべての秘密の分ろうよしが、あっただろう、それのみ心から感謝しているこの私ではないか。
 犬一匹、松の木ひとつ、噺の中へどうやらそれらしく描きだすことができてきた、全くそれもまたみんなみんな師匠のおかげではないか。
 そうして師匠は昨夜大そう怒んなすったけれど、現在師匠に教わらない我流の噺のこんなにも演れだしたということも、私のほうではこれ皆ひとえに師匠が丹誠の賜物とおもっているではないか。
 なればこそ、急用あって四手《よつで》駕籠へ乗り四谷の師匠の家の前を素通りするとき、ほんとうに師匠はしらないだろうが、いつも必ずこの私は、
「いって参ります師匠」
 またかえりには、
「只今かえりましたがきょうはお伺いできません、どうぞお大事に」
 こう駕籠の中で呟いていることが始終《しょっちゅう》ではないか。これを要するに、かくまで、かくのごとくにまで、一から十まで百まで千まで師匠おもって、おもい抜いて止まらざるこの私ではないか。
 だのにだのに……だのに師匠はあんなひどいこといってお怒りなすった。こちらに覚えのあることならどんなにも御詫もし、改めも致しましょう、だが正直一途の貧乏人のあばら家へやってきて、大刀突き付け金銀財宝残らずだしてしまえというようなとんでもないこといわれても、どうしていいやら困ってしまう。
 ああこれほど自分のおもっている真心が、さりとてはまた情なや、四谷なる師匠が夢枕へはかようすべ[#「すべ」に傍点]とてはないのだろうか。
 師匠、師匠。
 分って下さい。
 どうかこの私を分って下さい。
 圓太をお可愛がりなさるのは御勝手だけれど、この私を裏切り者だなどとおっしゃられては、私は……私は……なんで……立つ瀬が。
 いつかまたしてもボタボタ涙で欄干《てすり》を濡らしていた。
「オ、おどろいた師匠、情ねえよ俺」
 いつの間に立っていたのだろう、頬膨らました萬朝が急に後から肩を叩いた。
「…………」
 ドキンとしたように振り向いて圓朝は、あわてて華奢な手の甲で涙を隠した。
「いま俺、あまりくさくさ[#「くさくさ」に傍点]するから富士見の渡しンとこまでいってボンヤリ立ってたら、渡し舟ン中から馬道師匠が上がってきてね、すっかり聞いちまった圓太のことを」
 今度急に圓太が看板を上げられたのは堀留のほうの船宿の後家さんをほかして入り込み、そこへ圓生はじめ三遊派の主立った人たちを毎晩のように連れてきては酒よ妓《おんな》よとチヤホヤもてなした、三遊派の人たちと圓生|別懇《べっこん》の者は、だいたい何しろ二度三度とこのもてなしに与かってしまったものだから、どう本人が半チクな芸だとて、圓太を襲がせないわけにはゆかなくなってしまったのだということだった。
「だから、だから師匠、誰も苦情をいわなかったんだって。でも大師匠はじめとんだだらしがねえや、あの野郎に酒と妓でいいようにされちまうなんてねえ」
 忌々しそうにこういって、
「でも偉いねえ文楽お師匠さんだけは。何べんあいつがさそいをかけてきてもいっぺんも御馳走になりに行きなさらなかったんだって」
 とたんにガラリと格子が開いた。人の訪《おとな》う気配がした、すぐ飛んでいった萬朝が、
「ヤ、師匠、噂、噂、噂、噂をすれば噂だね、文楽お師匠《しょ》さんやってきたよ」
「な、何をいいやがるんだ噂をすれば噂だってやがら、ヤイ覚えとけ、噂をすれば影てんだよ」
 元気のいい声で笑って文楽、
「どうせ俺の悪口でもいってたんだろ」
「冗、冗……ほめて」
「な……、嘘ウ……」
「ホ、ほんとだってば、ねえ師匠」
 助け舟を呼ぶように萬朝うしろを向いたとき、
「オ、ようこそおいでで、サ、師匠どうぞ」
 無理から湿った声を明るくして圓朝、イソイソと迎えた。
「家にいてくれてよかった、話があってやってきたんだ」
 どこのかえりだろう刺子《さしっこ》姿で、いつもながらの頬の剃りあと青く、キビキビとした文楽は、ツツーと気軽に上がってきた。すぐ川の見える欄干《てすり》の傍へ胡座《あぐら》を掻いて、とおもったらまたすぐ立ち上がって、
「オイ行こう圓朝さん、つきあってくんねえな」
「何ですねえ師匠、いま入ってきなすったばっかりで」
「めしを食いたいんだいっしょに。橋向こうの小大橋《こたいきょう》までつきあってくんねえ。ネ、おい、いいだろう。上がらねえでさそうはずが萬朝の野郎があんな可笑しなことをいったもんで忘れてうかうか[#「うかうか」に傍点]と上がっちまったんだ。ね、おいすぐつきあってくんねえ」
「つきあいますよ。そりゃつきあいますけど、でもこのままじゃ」
 両方の手で唐桟の袢纏の袖口を、鳶凧《とんびだこ》のようなかっこうに引っ張って見せた。
「いいじゃねえか扮《なり》なんぞそのままでも」
 しずしずと白帆が滑っていく川の上を見渡しながら文楽はいった。
「というわけにもいきません、すぐ着替えます、その間くらい、師匠、仇《かたき》の家へきたって……」
「口ぐらいは濡らせってのか、分った分った、濡らすよ濡らすよ、じゃ早く濡らしてくれ」
 文楽は笑った。
「ヘイお師匠《しょ》さん」
 そのときお茶を持ってきた萬朝が、
「濡れぬ先こそ露をもいとえ、で」
「ちがってやがら、いちいちいうことが。そ、そんなことアそんなところへつかう文句じゃねえや」
 呆れて文楽はまたふきだしてしまった。荒い棒縞の外出着に着替えながらいつか圓朝も昨夜からのくさくさとしたものを忘れて高らかにアハアハ笑いだしていた。

「止めようとおもってたんだろお前、もう落語家を」
 美味いもの屋で通っている両国の小大橋《こたいきょう》の表はよく日が当っているのに、八間《はちけん》の灯でもほしいほど薄暗い一番奥の腰掛けで、ふた品三品並べて盃のやりとりしながらややしばらくしたとき、急に文楽はこういいだした。酔で赤くした笑顔の中に、ハッキリ真剣のいろが動いていた。
 黙ってコクリと圓朝は肯いた。その通りだった、ほんとうに。弟子には裏切られ、日に夜におもって止まない師匠からは袖にされ、ホトホト圓朝はきょう落語家稼業というものがいや[#「いや」に傍点]になり果ててしまっていたのだった。
「とおもったからあわてて大急ぎで俺やってきたんだ。危ねえ危ねえ」
 ワザと大袈裟に身慄いして、
「オイ、いまお前さんにそんな了見になられてみねえ、せっかく立派に咲く桜の花一輪|仇《あだ》に散らしてしまわにゃならねえじゃねえか。鶴亀鶴亀、たのむぜ圓朝さん」
 笑顔でお銚子を差し付けた。
 ヘイとお辞儀しながら飲みのこしの冷えたやつをグイと干して、
「いえ」
 自分がお銚子を奪うように並々と文楽の盃へ酌《つ》いでやると、
「でもあんまり……あんまりですから……」
 黙ってうつむいてしまった。そのとき文楽が置酌ぎにしてくれたこちらの盃の中へ、ポッカリと自分の顔が映って悲しく揺れていた。
「あんまりじゃねえんだ」
 キューッと盃の酒を呑み干して、また手酌で一杯酌いで文楽が、キッパリといった。
「へ」
「あんまりじゃねえんだよ」
 もういっぺんまた文楽はいった、またキッパリと。
「私のほうが無理なんで」
 恐る恐る圓朝は相手の目を見た、キビキビした中にもいたわりのある目を。
「お前のほうも無理でねえんだ」
 またズケリと文楽がいって、
「つまり両方とも
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