の名前の大きく書いてあるにおいておや。
 誰だろう。
 ハテ誰だろう。
 ほんとに誰がなったんだろう、一体。
 どう思い廻してみても側近に心当りのものがなかった。襲《つ》ぐには今更偉過ぎる人か、偉くなさ過ぎる人たちばかり。
 かいくれ[#「かいくれ」に傍点]圓朝には目星がつかなかった。
 それにしても自分のところへ披露のしらせひとつこないとは――。
 それだけにいよいよ当りが付かなかった。
 珍しくこの下席は浅いところで早くからだが空いてしまうので、休みで家の手伝いをしている萬朝を連れてある晩、フラリと圓朝は寿亭へとでかけていった。夜風は肌に染みるが、もうめっきり空のいろが春めきを見せて、新堀かけての寺町ではどこからともなく早い沈丁花が匂ってきていた。腰屋橋渡って向こうの暗いゴミゴミした町角に、その寄席はあった。

[#ここから2字下げ]
スケ
「三遊亭圓生
 三遊亭圓太」
[#ここで字下げ終わり]

 の看板が、紫ばんだ夜気の中にオットリと微笑んでいた。
 深く頭巾で顔を隠して圓朝たちは、中へ入った。八分がらみの入りだった。顔馴染の誰彼が、あとからあとからなつかしく高座へ上がってきた。つづいて、さらになつかしい師匠圓生が上がってきた。顔見られぬよう柱のかげへ身をよじらせて圓朝はそっとうれしく聴き入っていた。あと[#「あと」に傍点]へでる初看板圓太の提灯をしきりに持って、未熟ではあるがどうか引き立ててくれと師匠はくどくど[#「くどくど」に傍点]頼んだのち、ついてはあれが道具噺をいたしますから手前のところはあとと色の変りをますようお笑いの多いところをと、「にゅう」という与太郎のでる噺を相変らず地味な話し口ではあるが、克明に演って引き下がっていった、さすがに、相応以上に受けていた。
 ……久保本の自分の真打《しばや》のとき、毎晩同じ噺を演っては困らせたことをおもいだして圓朝は、ふっと身内《みうち》が寂しくなった。
 師匠が下り、中入りが過ぎると、にわかに浮き立つようなシャギリの囃子が聞こえてきた。この囃子を聞きながらまた圓朝は師匠に今夜の演題《だしもの》を前で演られてしまったため、何を喋ろうかどう喋ろうかととつおいつ[#「とつおいつ」に傍点]したときのことを、きのうのごとくおもいだして、いよいよしんしんと寂しくなってきていた。
 そのとき御簾《みす》が上がり、浪に兎の背《うし》ろ幕派手やかに張りめぐらした高座の前、ぞろりとした浅黄縮緬の紋付を着た若い真打が両手を前に、ひれ[#「ひれ」に傍点]伏していた。烈しい拍手が浴びせられた。
 誰だろう圓太って。
 いまのいま心を掠めていた寂しさも忘れて圓朝、ジーッと高座をみつめた。
「…………」
 しずかに真打は顔を上げた。
「ア」
「あの野郎だ」
 期せずして圓朝が、萬朝が、低く叫んだ。
 由緒ある三遊亭圓太の名跡|襲《つ》いだは、あの代地河岸へ越してすぐ、手っぴどく小言いわれてずらかってしまった、なんとあの弟子の小勇であったのだった。
「フーム……何て……何てこったろう小勇が……」
 文字通り開いた口が塞がらなかった。ただしばらく圓朝はポカーンとしていた。
 あまり陰日向があるからとて小言をいったらすぐプーイと飛びだして、敵方の柳派の柳枝さんのところへ駈け込んでしまったというから小面憎い奴とおもい、それで師匠の風当りが悪くなったのだとばかり考えていたら、なんのなんの我が敵は正に本能寺にあり、張本人、うちの師匠のところへもぐずり込んでいって弟子にして貰った上、圓太なんて大それた名前まで貰ってしまうとは。
 今にして初めて圓朝は、久保本のすんだあと礼にいったらお神さんがでてきて、会わせてくれなかったあのとき、奥から師匠の声といっしょに聞こえてきたどこかで聞いたようだとおもったあの声の紛れもなくこの圓太ではあったことが分ってきた。
 さては、このごろ師匠の機嫌の悪いのは一にこの男のためだったか。
 あることないことこの男が自分の讒訴《ざんそ》を上げていたためだったのか。
 あとからあとからもつれて解けない謎糸の、次第にひとつずつ解けてくるものあることが圓朝に感じられてきた。
「それにしても……」
 小勇の圓太、弟子にしたとて構わないから、お前とにかく元の師匠の圓朝に詫びておいで、そうしたらいつでもうちの弟子にしてやるよ、ひと言こういっておくれでなかった師匠の上が、つくづくと怨めしかった。しかも無断で弟子にしてしまった上、だしぬけにこんな披露までさせるなんて。
「そりゃまあ、何にもせよいまの私は失敗《しくじ》っているのだから大きなこともいえないけれど」
 それにしても圓太を襲げるほど小勇、そんなに短い月日のうちに、素晴らしい腕前になってしまったのかなあ。それほど師匠、特別の仕込み方をしたのかしら。
「…………」
 あれこれとおもいめぐらしているうち、もう小勇の圓太は喋りだしていた。慌ただしい調子でまくらから本題へ。噺は師匠が久保本の初晩に喋ってしまった、圓朝にとってはおもいで怨めしい「小烏丸」だった。
「…………」
 呆れてしまった、聴いていて圓朝は。自分の耳が疑いたかった。あの厳《いか》めし屋の師匠がこんなものを。しかもこんなものに、圓太なんて由緒ある名を……。いくらそうおもってまた聴き直してみても、依然、拙過ぎるというこの男の現実は、現実だった。
 素人調子というやつ。
 てんで[#「てんで」に傍点]調子が上ずっていて板に付いていなかった。おそくあるべき間《ま》のところが早過ぎたり、かとおもうとトントンとゆくべきとこではじれったいほど「間」を持たせたりした。眼《がん》の配りもめちゃめちゃ[#「めちゃめちゃ」に傍点]だった。からっきし[#「からっきし」に傍点]それには「芸」の何たるかが分っていなかった。ということはでてくる人物の心持ちへ喰入《くいい》るすべ[#「すべ」に傍点]を露ほどもわきまえていなかった。何ともいえない哀れ惨憺たるその……。
「いやだねこれは」
 思わず萬朝を顧みて圓朝は眉をしかめた。
「コ、こんなもの師匠ごんご[#「ごんご」に傍点]……ねえ、ねえあの、ごんご[#「ごんご」に傍点]でさあ」
 このごろめっきり噺の上にも可笑しい持ち味を見せてきている萬朝が、おどけた顔付きをしていった。
「な、何だいごんご[#「ごんご」に傍点]とは」
 ほかのお客に障らないよう小さい声で圓朝が訊ねた。
「ごんごてのはホレ、ごんご……ごんご、だんだん」
 萬朝はいった。
「な、何をい……」
 笑いだして圓朝は、
「いおうならそれも言語道断だろう」
「ア、そうそうそうそう」
 とたんにいそがしく肯いた萬朝が、
「ウムそれだ、その、つまり、言語瓢箪」
「まだあんなこといって……」
 つい可笑しくて圓朝は、廻りの人たちが振り返ったほど少し大きな声で笑ってしまった。
 最前から圓太の噺、少しも受けず、一人立ち、二人立ち、かなりのお客がバラバラバラバラ立ちかけている最中だっただけ、この笑い声、いっそうお客のかえりたがっている心理へ拍車をかけたかもしれない。あわてて圓朝が袂で口を押さえたとき、いっそうドヤドヤと左右からお客が立ち上がった。
 ……間髪をいれず、そのとき背《うし》ろ幕が落ち、野遠見《のとおみ》となり、すこんからんと見得を切ったがそのまた型の悪さ。「音羽屋」と声かける客さえなかった。シーンと下らなく客席は燻《くゆ》み返ってしまっていた。
 みるから危なっかしいその手つきに、いまにも段取りを間違えドジを踏みはしないかと圓朝、今尚自分の弟子であるかのよう。いつか真剣にハラハラしだした。いっそう眉がしかめられた。だから、やがてどうやら落が付き、今晩これぎりと打ちだしたとき、うそもかくしもなくホッと圓朝は呼吸《いき》をついたくらいだった。
 と見ると、辺りのお客様ははじめ八分がらみいた者がもう二十人そこそことなっていた。


「師匠が楽屋で呼んでますから」
 表へでたとき、このごろ弟子入りしたのだろう十三、四になる筒っぽを着た顔見知りのない前座がやってきて、切口上にいった。
 ふと暗いいやな予感がした。でも振り切ってかえったらいっそういけないだろう。思い切って圓朝は萬朝を表へ待たせ、前座の後からつづいて楽屋へ入っていった。
 狭い楽屋のとっつき[#「とっつき」に傍点]に、大風《おおふう》な顔をして腕を組み、圓太がいた。圓朝の顔を見て、ニコリともしないで顎をしゃくった。
「…………」
 ぐ、ぐと胸へこみ上げてくるものがあったが、ジッと耐えた。軽く会釈をして上がった。
 正面に師匠が、席亭からだされたのだろう、沙魚《はぜ》の佃煮か何かでチビチビやりながら真っ赤に苦り切った顔を染めていた。二ヶ月ほど会わないうちにまた少し白髪が増えたようだったが、絶えて久しい大きな鼻が、しみじみ圓朝はなつかしかった。
「圓朝、おい」
 手を仕える間もなく、鋭い声が浴びせられてきた。
「おい、ねえおい、おい、何だってお前、これ[#「これ」に傍点]の噺を邪魔ァする。大きな声で笑ったり何か、それじゃわざわざ客を立たせにやってきたようなもンじゃねえか」
「未熟じゃあるが、俺が許して三遊亭圓太を襲がせたんだ。襲がせるからには襲がせるだけの魂胆があってしたことだ。何だってそれをお前邪魔する」
「…………」
「俺はこいつが可愛い。可愛いんだ。そのこいつの真打《しばい》を邪魔立てするのはお前、俺に楯突こうてのも同じだぞ」
 あとからあとから矢継早に、おもいもかけないことをいいだされてきて、全く圓朝は途方に暮れてしまった。
 もちろん笑ったのはたしかにこっちが悪いけれど、何も圓太の噺を笑ったわけじゃない、萬朝がとんちんかん[#「とんちんかん」に傍点]なことをいいだしたからだった。でもこう畳みかけて責め立ててこられちゃ、いい説くすべ[#「すべ」に傍点]がなかった。ただ困って頭ばかり下げていた。
「おい、今こそいってやる」
 このときいっそう師匠は笠にかかってきて、
「お前が常日ごろ俺のことどんなこといって歩いているか、皆、俺こいつから聞いて知っちまった、おい圓朝どうだ、悪いことは出来ねえもんだろう。山と山とは出合わぬが人と人とは出会うもの、世の中の廻り合わせはいつどうなるか分らねえ。壁に耳あり徳利に口だぞ」
「…………」
 何をどう小勇の圓太がいったかしらないが、天地の神も照覧あれ、いつまあ私が師匠の悪口なんかこれっぱかしでもいったことだろう。
 ほんとうにこればっかりは浄瑠璃の鏡に照らされたって露いささかも身に後ろ暗いことはない。この何年か四谷の師匠のほうへは足も向けては寝ないくらいのこの自分じゃないか、それを、それを、圓太も圓太なら師匠も師匠だ、何ぼ何だってあまりなことを。思わず開き直っていおうとしたが、まあ待て師匠は酔っておいでなさる、口惜しき胸を撫でさすって圓朝は再び下向いてしまった。
「まあまあ、まあいい」
 あざ笑うように師匠はいって、
「蔭じゃ公方様の悪口だっていうんだ。しかしこの後もあることだ。あまり俺の前と後と、手の裏返したようなことだけはいってくれるなよ。おい圓朝おい、分ったか」
 一段と声を険しく高くしてきて、
「おい、分ったかったら」
「わ、分りました、あいすみません」
 低い低い声でいった。そうしてさらに頭を下げた。下げたその頭が慄えていた、あまりのことの口惜しさに。
「分ったら書け、今夜の詫状を。ええ、俺宛てにじゃねえ圓太宛てに、だ。それ圓太、そこの硯箱《あたりばこ》と紙と持ってきてやれ」
 さも快そうに師匠はいった。
 有無なくその場で圓朝は、先方のいう通りの文句で詫状を認めさせられた。どれほどそれを書く手のまた、憤《おそ》ろしく慄えて止まなかったことだろう。
「サ、書いたらそれでいい。お前の生《なま》っ白《ちろ》い面《つら》なんか見ていたくもねえんだ。帰れ帰れ早く」
 次のお銚子をニッコリ圓太に命じながら、その笑顔をすぐまた百眼《ひゃくまなこ》のよう、不機嫌千万なものに圓朝のほうへ戻して、
「オイ、
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