ってきて、月かげ隠す薄雲とはなることが仕方がなかった。心の澱《おり》――それが消そうとすればするほど、却って一杯にひろがってきてしまうのをどうすることもできなかったのだった。
 いっそ圓朝は寂しくなった。


     三

 いつとしなく僻《ひが》んでいこうとするこの心。
 暗く寥《さび》しく愚痴っぽく、次第に下らなくなっていこうとするこの自分の心。
 継《まま》っ子根性てのがこれだろう。
 いけない――とおもった、圓朝。
 少なくともいまは、この私という人間のいの一番の振り出しにあたっては、いやが上にも明るい了見で出立たなければならないのに。
 拓こう、路を。
 何とか切り拓いてしまわなければ……。
 百千《ももち》に、千々に、心を苦しみ、砕いた揚句が、はじめてその結果圓朝は新作噺の自作自演ということに思い至った。
 なまじ師匠から教わったものへ、道具を飾り、鳴物を使って演ろうとするから、いつも師匠のほうに先くぐりされてしまうのだ。
 すでに鳴物、道具の力を借りて新しい噺の「路」を拓いていこうとする以上、百尺竿頭一歩を進めて当然その噺も、自ら工夫し、創り上ぐべきだろう。
 そうしたらうちの師匠といえども鬼神じゃなし、およそこの先廻りばかりはできないだろう。
 そうだ、もはや巧い拙いの問題じゃない、寸時も早く自分は新作噺をいくつか創り上げて、それへと道具、鳴物を配そう、そうして皆をアッといわせよう。
 それが焦眉の問題だし、でない限りいませっかく天からこの自分の前に与えられた「真打」という華やかな門は、また再び青竹十文字に閉門と逆戻りしてしまわなければならなくなるのだ。
「そうだ、ウム、そうだ」
 堅く圓朝は、心に肯いた。
 翌日から一室に閉じ籠り、取り寄せた随筆旧記の類(いつにも父親の圓太郎なんか、見たこともなかったが、二代三代前から家に伝わる写本がいろいろ七軒町の家の本箱の奥には煤びれていたっけ)をあれこれとなく貪り読んだ。
 と――中から二つの暗示が得られた。
 ひとつが越後|親不知《おやしらず》の因縁噺で「累草紙《かさねぞうし》」。
 もうひとつが艶っぽい人情噺で「おみよ新助」。
 どっちもどうやら辛うじて十五日の読物に纏め上げることができた。でも世の中なんて何が幸いになるか分らない。この幾日か、中入りのあと自分の上がる迄、熱鉄を飲み下す思いで突嗟にその晩その晩の喋る噺に苦労をしつづけた、それがいまことごとく役に立って圓朝はさまで[#「さまで」に傍点]苦しまずとも二つともトントンと筋が立っていったのだった。否、なまじ聞き覚えの噺や講釈をあれかこれかとおもいだすより楽に、自由に、我流で筋立てていくことができたのだった。ことに、苦しさももちろん少なくはないが、一篇書き上げたそのあとの喜びは何にも代えがたく素晴らしかった。喋って、巧くできて、ワーッと受けたときより、地味ではあるがこの喜び、遥かに大きいかもしれなかった。
 もの[#「もの」に傍点]書くということの上に、日々人知れぬ幸福を、圓朝は感じだすようになってきた。
 傍ら新作に相応《ふさわ》しい道具もこしらえていった。つづいて鳴物の打ち合わせもおえた。
 八日目。
 もう中日《なかび》はすんでいたが、演らないよりはまし[#「まし」に傍点]、名誉挽回この機《とき》にありと、

[#ここから3字下げ]
┌──────────────┐
│      今晩より御高覧に|
│新作道具噺         |
│      奉供候 圓朝敬白|
└──────────────┘
[#ここで字下げ終わり]

 こうした立看板を、麗々しく久保本の表へ飾らせた。新春《はる》のこととてどうやら不評ながらにお客のきていたところへ、この目新しい看板は道行く人の目を魅き、足を停めさせた。論より証拠、たちまちその晩のお客は二|百《そく》五十を越え、中入り前には早や場内、春寒を忘れさせるほどの人いきれが濛々と立ちこめていた。
 この晩初めて圓朝は「おみよ新助」の封切りをした。殺し場でチョンと後の黒幕が落ちると、紫と白美しき花菖蒲が、そこかしこ八つ橋を挟んで咲きみだれていた。
 その菖蒲模様を背景に禅《ぜん》の勤《つと》めの鳴物、引抜きで浅黄の襦袢ひとつになって圓朝は、ものの見事な立廻りを見せた。世話だんまりのおもしろさがそのまま、猿若町の舞台からここ久保本の高座へと移り咲いて、花と匂った。
 すこんからんと見得切ったとき、
「成田屋」
「音羽屋」
「三河屋」
 いろいろのことを叫んでお客は熱狂した。
 その興奮のるつぼ[#「るつぼ」に傍点]の真っ只中を、早間に刻む拍子木の音いろとともにスルスルと御簾が下りていった。まだ、いつ迄も、喝采が聞こえていた。歓呼のどよみが鳴り止まなかった。
 初晩以来、初めての胸がスーッとするほどの出来映だった。銭金では購えない一種特別の喜びが、圓朝の身体中をズブズブに浸した。今宵こそ初めて自分の周りの人たちの顔を仰ぎ見られる思いだった。
「師匠師匠、大へんな評判。あんたなぜこれを初日からだしてくれなかったんです」
 いつか話をまとめにきた下足の爺さんが、病身らしいもう年配の女主人といっしょに、バタバタ楽屋へ飛び込んできていった。
 初日からこれがだせるくらいなら何も私、師匠にあんな真似をされなくてもすんだんでさあ。そういいたいところを、黙ってただニコニコと圓朝は頭を下げていた。
「あのほんのこれ少しで失礼ですが、どうか楽屋の皆さんで召し上がって下さい」
 よっぽど、今夜の出来映が気に入ったのだろう、お酒を一升、お煮しめを添えて女主人がそれへ差し出した。
 こんなにも自分のこしらえた噺が喜ばれた、お客はおろか席亭にまで。ジーンと圓朝はさしぐまれてくることが仕方がなかった。
 やっぱりお蔭だ。師匠のお蔭だ。
 チャンと何もかも承知の上で師匠はああやって虐めて下すったんだ。あのことなかったらどうしてこの私に、この「おみよ新助」の噺ひとつできていたろう、いや「おみよ新助」ひとつじゃない、まだあとには「累双紙」というものもあるのだ、そうしてまだまだこのあといくつもいくつも、一生涯いろいろさまざまの噺をこしらえていこうとさえ考えているのだ。みんな、みんな、この間うちの師匠の仕向け方の賜物でなくて何だろう。
「…………」
 いまこそ圓朝の心の鏡は世にも美しく研ぎ澄まされ、それへおおどかに師匠圓生の大きな鼻が、それこそ真如の月浴びてありがたく辱《かたじけな》く映しだされてきた。ヒシとその圓生のおもかげへ飛びついていって、齧りついて抱きしめてしみじみ御礼がいいたいくらいのおもいだった。
 ……翌晩ももちろん圓朝は、「おみよ新助」の続きを演った。今夜は野遠見《のとおみ》へ、あかあかと銀紙の月さしだし、月下、艶かしい首抜き浴衣の悪婆を中心に、またしても世話だんまりを身振り面白く展開させた。
 その次の晩も、切り場は河岸っぷちの派手な立廻りだった。そのまた次の晩は廓での怪談。さらにまた次の晩は雪中の立廻りで、これでめでたく市が栄えた。いずれも大した評判だった。事実今迄の道具噺はこれほど鳴物が大がかりでなく、これほど道具幕が綿密でなかった。師匠圓生のにしてからが、話術は別として道具のほうはチャチ[#「チャチ」に傍点]なお寒いものだった。そこへいくと圓朝のは特別に新しい鳴物の工夫をいろいろ凝らしてきている上に、たとい幾ヶ月でも国芳の家の釜の飯を食べたことはここへきて初めてもの[#「もの」に傍点]をいった。圓朝えがく道具立は、そこらのびらや[#「びらや」に傍点]が描いたものと比べものにならないほどの精彩を放った。活きて迫ってくるものがあった。その点も特別の魅力として取り沙汰された。
 さてあとの二日は「累双紙」のほうを演った。
 これも大波小波を大道具大仕掛で迫真に見せたり、本雨を降らせたりした。これまたヤンヤヤンヤの喝采だった。
「師匠なぜこれを初晩に……」
 またしても下足番の爺やから、こう好意ある不足をいわれたほどだった。
 めでたく久保本十五日の初看板が、ここにおわった。
 グッタリとしてしまった圓朝だった。でもそれは言葉に尽せない、大いなる歓びに満ち満ちた疲れようだった。
 もういまはなんの心の澱《おり》もなく、ああ、師匠のお蔭で新しい道が拓けた。
 おもえばおもうほどありがたくてありがたくてならなかった師匠の上だった。
 久保本の興行がおわるとすぐあくる朝、また手土産を携えて圓朝は、師匠のところへ礼にいった。
「圓朝さん。いまうちの人、風邪気味で臥《ふせ》っていますからお目にかかれないそうです」
 少し老けたが相変らずつんと美しいお神さんがでてきて、術もなくいった。ピシャンと障子を閉めてそれっきり、また奥へ入っていってしまった。
 そのくせ奥では高らかな師匠の笑い声が聞こえていた。もう一人相槌打って笑い合っている声のたしかに聞き覚えありとはおもいながらも、どこの誰やら分らなかった。
 ……一瞬、消えてしまっていたはずの心の澱というやつが、またそろそろ頭をもたげだしてくることをどうすることもできなかった。

 その後何べんいっても師匠は会ってくれなかった。いつもお神さんがでてきては取り付く島もないくらい、留守だとか病気だとか呆気なく玄関で断られてしまった。しかもそのたんび、師匠の自宅にいることはハッキリと分った、あるときはまた気配で、あるときは誰か分らないけれど確かに聞き覚えのある声といっしょに師匠の声が大きく聞こえて。
「止そう、しばらく師匠を訪ねるのは……」
 こんなことを繰り返したのち、圓朝はこう決心してしまった。うちの[#「うちの」に傍点]小勇が柳派へいってしまったらしいこともやはり自分に祟《たた》っているのだろう。でも永い月日のうちには師匠の機嫌も直るだろう、いまいたずらにここでこんなことを繰り返しているとそこは凡夫、日一日と例の心の澱というやつが大きく色濃く拡がっていってしまうばかりだった。
「当分行きさえしなかったら……そうして自分は自分の道さえ脇目も振らず励んでいたら……」
 ほんとうにそんな師匠のことなんか考えているよりも、いま圓朝の目の前には進まねばならない「道」が菫《すみれ》たんぽぽ咲きみだれて、春を長閑《のどか》とあけそめていた。ひたすらそこを進めばよかった。それからというもの、ことさらに圓朝は師匠夫婦の上を思い煩うことを止めてしまった。
 そういううちもしじゅう文楽師匠は中入り前のいいところへつかっていてくれたし、中流の寄席ではあるが一枚看板で真を打たせてくれるところも二た月にいっぺん、三月にいっぺんは、でてきた。そのたんび今度は親父の圓太郎にすけ[#「すけ」に傍点]てもらった。日常生活こそからもう[#「からもう」に傍点]意気地なくなってしまっていたが、さすがに好きでなった稼業の、高座へ上がるとどうしてまだなかなかに達者なものだった。一段と渋くなった声音が、大津絵やとっちりとん[#「とっちりとん」に傍点]や甚句に昔ながらの定連を喜ばした、しかもそうした定連たちは枯淡な圓太郎の音曲を懐しむとともに、その忰である圓朝の花やかな道具噺の、新しい贔屓ともなった。お客は増えるばかり、人気は上がるばかり。うそもかくしもないところ文楽の真打《とり》席へ働かせてもらっているとき、
「もうでてしまったかえ圓朝」
 こういって聴きにくるお客がひと晩に五人や十人は、必ずあるようになった。
 ああ、ありがたい。
 その日その日というものに、ほんとうにいま圓朝は生甲斐を感じだしていた。


     四

「三遊亭圓太」という看板が、だしぬけに二月の下席《しもせき》、浅草阿倍川の寿亭という寄席へ揚げられた。鳴物入り道具ばなしと肩へ書かれてある定式幕、縁《ふち》とりの辻びらを見て、圓朝はオヤッと目を疑った。
 いつ誰がなったのだろう、圓太に。
 圓太とは初代古今亭志ん生の前名。到底きのうきょう出来星の落語家の付けられる名前じゃなかった。いわんや、その傍らにスケ三遊亭圓生と師匠
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