た。
「…………」
 圓朝の喜びは文字通り筆紙に尽せなかった。はるばる山手《のて》からその交渉にきてくれた瘠せた下足番の爺さんへ、心の中で手を合わせたくらいだった。よちよちかえっていく爺さんのこけた背中の辺りからは、キラキラ後光が映《さ》しているようにすらおもわれた。
 青山南町なら、例の赤坂の宮志多亭へほんのひとまたぎであることも妙にうれしかった。
 雷隠居だってきっとこの私の看板を見るにちがいない。
 ただひとつ問題は寄席のほうから、スケを師匠の二代目圓生にぜひねがいたいと註文されたことだった。
「…………」
 ハタと圓朝は困ってしまった。
 まさか現在の師匠を只今不首尾になっておりますとはいえなかった。
 第一先方としても、まだ脂《やに》っこいこの自分に真打《とり》をとらせてくれる以上は、せめて師匠くらいのところを助《す》けさせなければ看板|面《づら》花やかに客が呼べないものとおもっているくらいのことは、圓朝といえどもよウく分り過ぎるほど分っていた。
 だけにいっそう辛かった。
 よろしゅうございます。真打の取りたい一心でこう容易《たやす》く引き受けてはしまったものの、このごろ何かにつけて自分に当りの烈しい師匠圓生。
 果而《はたして》ウムといってくれるだろうか。
 考えると心細かった。
 誰がお前なんかにと、剣もホロロに横に首《かぶり》を振られてしまうのじゃなかろうか。
 もし振られてしまったら、何としよう。
「…………」
 しばらく圓朝はとつおいつ[#「とつおいつ」に傍点]した。
 どういつまで思いを巡らしていたとても、この心の循環小数はどこへ落ち着こうすべ[#「すべ」に傍点]もなかった。いたずらなどうどう[#「どうどう」に傍点]めぐりを繰り返しているばかりだった。
「エエ仕方がない、当って砕けろ、ぶつかってみよう、そうして小向かいで膝を抱いて話してみよう。それでいけないッたらまたそのときはそのときのことだ」
 万々一、最悪のときは文楽師匠にすがってみてもいいとおもった。
「ねえ皆《みんな》喜んでおくれ、いよいよお正月の下席から青山久保本で私の真打だ。多分もうハッキリと定《き》まるだろう」
 覚悟が定まると、にわかに心が浮き立ってきてさっそく外出着《よそゆき》に着換えて出掛けるとき、たまたま来合わせていた双親に、弟子たちに、明るく圓朝はこういった。
「エ、真打が、お前《めえ》の」
「よかったねえ、ほんとうに」
 眉に喜びのいろを見せて双親が微笑めば、
「師匠おめでとうございます」
「ヘイ、おめでとうございます」
「おめでとうございます」
 口々に弟子たちも祝儀を述べた。道具噺以来、もう萬朝のほかに、勢朝、圓三と増えていた圓朝門下だった。
 逸早く母のおすみは縁喜棚へ、お燈明を上げた。カチカチ萬朝が切火を掛けた。でもいくらやってもその切火、まるで火がでないとおもったらなんの萬朝、火打石の代りにシッカリ拳ほどのお供えを握ってはいるのだった。お供えからは火がでやしないや。
「うち[#「うち」に傍点]じゃ阿父さんと萬朝と二人、そそっかし屋[#「そそっかし屋」に傍点]がいるから」
 口へ手を当てておすみは笑った。
 晴れやかな笑い声をあとに、手土産片手に圓朝は家をでた。獅子舞の笛太鼓がしきりにそこここに路次路次から流れていた。

 久し振りでのぼってきた山手《のて》の街々、いい塩梅に師匠圓生は在宅だった。しかもおっかなびっくり[#「おっかなびっくり」に傍点]で訪ねていったのが、思いのほかに機嫌がよかった。
「エ、久保本、お前が下席を。ああいいともいいとも、そりゃめでたい、助《す》けて上げるとも! 安心おし」
 恐る恐るスケ一件を切り出すと案ずるより生むが易し、言下にこう快諾してくれた。
「ありがとうございます師匠。何分お願い申し上げます」
 ホッと肩の荷の下りる思い。畳へ額をすれすれ[#「すれすれ」に傍点]にして礼をいった。
 ま、いいじゃないか、ゆっくり遊んでおいで――と珍しくたいそうな御機嫌で引き留められるのを昼席がありますからと断って表へでた。
 いかにものどかな午後の日の中の山茶花垣のひとつづきを歩きながら圓朝は、こうトントン拍子にいくようでは、いよいよこから[#「こから」はママ]自分の運は拓けていくかな。
 うれしくそうおもわないわけにはゆかなかった。
 と、見ると一番まとも[#「まとも」に傍点]に日を浴びている傍らの枯芝の上へござをひろげて、みるから人の好さそうな爺さんが赤い、黄色い、また薄青い唐辛子を干していた。ふっと圓朝はこのごろめっきり愚に返ってしまった父圓太郎の上をおもった。頭上で鳶がトロロと輪を描いている……。

 ……やがて久保本の初日がきた。

「困った」
 圓朝は真っ青になってしまった。その初日の晩の楽屋だった。ニコニコ愛敬たっぷりに上がっていった師匠の圓生が、なんと今夜最終に圓朝自身鳴物や道具を遣って演るはずの「小烏丸」をそっくりそのまま丸ごかしに素噺《すばなし》として喋ってしまったからだった。
 地味な話し口とはいえ、素噺とはいえ、老練の圓生。きのうきょう出来星の圓朝の腕前なんか、爪の先へも及ぶべくなかった。
 ハッと吐胸を突かれたときはもう遅く、あれよあれよといううちにとんとんと噺は運ばれ、やがてアッサリ落《さげ》まで付けられてしまった。
 もちろん、ひと方ならない受けようだった。
「ハイお先へ。しっかりおやりよ」
 下りてくるとニコリと笑ってそのまま師匠は、すましてかえっていってしまった。
「ああ、どうも、これはとんだことになってしまった」
 いても立ってもいられなくて、頭をかかえて圓朝は考え込んでしまった。急に道具を取りにやるといっても、青山から代地まで。しょせんが今夜の役には立たなかった。
 とするといま持ってきている道具で演るより仕方がない。しかしそのいま持ってきている道具は、あくまで最前師匠が演ってしまった「小烏丸」以外には通用しないものだった。
 さりとてまさかに、まさに歴然と演ってしまった「小烏丸」を二度と繰り返すことはできない。
「どうしたらいいだろう全く」
 ギッチリ詰まった中入りの客席、しきりにお茶売っている声すら耳に入らなかったほど、立ったり坐ったり、またその辺を意味なく歩き廻ったりしていた。
 怨めしいほど早く中入りの時刻は過ぎた。
 容赦なく片シャギリの囃子が鳴らされ、歌六という背の高い音曲師がヌーッと上がっていった。賑やかにお座づをつけはじめた。
 この人が終ったら、あとはもう泣いても笑ってもこの私だ。
「ああ、ほんとうにもうどうしよう」
 いっそ圓朝は泣きたくさえなってきた。でも泣いたとて、喚いたとて、しょせんははじまらないことだった。そういううちも時刻は刻一刻と迫ってきていた。
 何とかしなければ……。せっかくの自分の初看板がめちゃめちゃになってしまう。
「ままよ――」
 苦し紛れの一策として「小烏丸」によく似た筋を、突嗟に圓朝はでっち上げ[#「でっち上げ」に傍点]た。これなら何とか今夜持ってきたこの道具を、鳴物を、そのまま活かすことができよう。
 そう心を定めたらさすがにいくらか胸の動悸がしずまってきた。でもこんな噺、あまりにも一夜漬け過ぎて面白くできないだろうことは演らないうちから分り切っていた。
 考えると気が重かった。
 何て、何て、因果な初看板だろう。
 つい悲しく、長い眉をしかめた。フーッと深い息を吐いた。
 そのとき賑やかに高座では「横浜甚句」が歌われだした。いつもきまってこの唄を歌えば歌六、高座を下りるのだった。
 ア、これでおしまいだな。
 もういっぺん圓朝は覚悟のほぞ[#「ほぞ」に傍点]を定めた。とまた最前とは別なジーンと硬ばった心持になりながら、しきりに襟を掻き合わせた。
 間もなく歌六が下りてくるとすぐ花やかに芝居がかりの着倒《ちゃくとう》の囃子が起って、黒衣着た萬朝たちがまめまめしく高座へ道具を飾りはじめた。
 師匠さえあれを演ってしまわなかったら、今夜この道具で見ン事かなりにきてくれているこのお客様を唸らせてみせるんだが、近ごろ年の加減でいくらかもうろくしてしまったのだろう師匠の上が今更ながら怨めしかった。
 やがて冴えた拍子木の音とともにキリキリ御簾が絞られたが、その拍子木の音の百分の一も圓朝の心は冴えなかった。ばかりか、水銀のようにドロンと重たく曇っていた。
「…………」
 強いて面を晴れやかにして上がってゆくと、前に師匠が充分に伺った「小烏丸」もどきの別の[#「別の」に傍点]噺をいとも危っかしい調子で喋りだした。すでに噺が似かよっている上に、「小烏丸」の急所急所は除けて喋っている。おもしろいわけがなかった。
 しかも急仕立だけに鳴物のキッカケは始終外れる、せっかく鳴物のほうがピッタリ合ったかとおもうと圓朝のほうが口籠ったり、とんだいい違えをしたり、した。しどろもどろ。てんで型にも何にもなっちゃいなかった。
 今晩これぎりと果太鼓《しまいだいこ》とともに御簾が下ろされたとき圓朝は、穴あらば這入りたや、ベットリ冷汗で身体中を濡らしていた。
「オイ思ったより妙でねえな」
「ウム。しかしこれ圓朝かなあ。俺、前に聴いたときもっと巧えとおもったんだがなあ。別の奴かもしれねえぜ」
 ぞろぞろ[#「ぞろぞろ」に傍点]下足の方へ立っていく客の群れの中から、こんな聞こえよがしの高ッ調子がまだ高座のまん中で手を突いたまんまでいる圓朝の耳へ鋭く痛く刺《ささ》ってきた。
 無理はない、演っているこの私でさえ、じれったいほどまるで調子がでてこないんだもの。ことさらにあとからあとから冷汗の身体全体へ滲みだしてくることが仕方がなかった。
 まあ仕方がない明日を聴いて貰おう。
 僅かに自分で自分をこう慰め人に顔を見られるのもいや[#「いや」に傍点]な思いでスゴスゴ圓朝は楽屋へ下りてきた。

 翌晩がきた。
 何たるこったろう、今夜もまた、師匠は圓朝が演るはずの「繋馬雪陣立《つなぎうまゆきのずんだて》」をそっくり演っていってしまった。――拠所《よんどころ》なく雪の道具だけに講釈で聴いて覚えていた「鉢の木」をいい加減にでっち[#「でっち」に傍点]上げて、どうやらこうやらお茶を濁した。
 さすがに、初晩のでたらめの話ほどではなかったけれど、やっぱりいい出来とはいえなかった。
 三日目。
 やっぱり師匠は、圓朝の演る「芝居風呂」をさっさ[#「さっさ」に傍点]と演っていってしまった。その銭湯の道具立てを活かすため、今夜はこれも講釈や文楽師匠の人情噺で聞き覚えの祐天吉松が下谷幡随院の僧となって、坊主頭で朝湯へやってきて鼻唄を歌うくだりを演った。
 どうにかこれは型がついた、口馴れない割合にはという程度だったけれど。
 四日目も「駒長」を先へ喋られてしまった。五日目も「小雀長吉」を先くぐりされてしまったこともちろんだった。そのたんびたんび熱鉄を飲み下す思いをして圓朝は、突嗟に何かその道具立てに因みある噺を考えださなければならなかった。
 いってみれば毎晩ひとつずつ即席の難題を突き付けられているような何ともかとも名状しがたい辛さ、苦しさ。
 どうやらその晩お茶が濁せて打ちだすたんび、ゲソッと圓朝は自分の頬の落ちていることを感じた。
「……ひどい……ひどいなあ師匠、どれほどの私に怨みがあって」
 いくら何でも師匠の仕打。もうもうろくとのみは考えられなかった。ついこう呟かずにはいられなかった。
 でも――でも、なろうことなら圓朝、大恩ある師匠の上をこれッぱかしでも怨みたくはなかった。そっと何とか自分の胸を撫で摩《さす》って、怨めしさを塗り潰して置きたかった。
 そう、そうだ、師匠はこの私を励ましてやろうと、それでワザとああした真似をおしなさるんだ。
 そう、そう、それそれ、それにちがいない。やっとそういう考え方に思い至って一瞬、怨めしさは影を秘め、心に真如の月澄まんとしたが、
「……だが……だが……」
 もったいないが澄みかけた天水桶のその水は、すぐまたそばから濁
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