万長亭の招き行燈が、秋の夜らしいしみじみとした灯のいろを見せて微笑んでいた。シャーイシャーイという木戸の声が、まだ原っぱを歩いているうちから丈高い草の葉越しに聞こえてきた。なかなかお客がよくくると見えて、あとからあとから下足札を打つ音が、チョン、チョン、チョチョンチョチョンと聞こえてきた。その声その音すらが次郎吉にとっては、絶えて久しいなつかしきかぎりのものだった。西黒門町の八百屋にいて寄席囃子を聴き、濡れた慈姑《くわい》を掴んだまま、夢中で後の貸席へ入っていってしまった日のことを、すべてがもう遠い昔のことになってしまったのだ、今の幸せなこの俺にとっては……とまた今更のように考えて、うれしく悲しくおもいだしていた。
傍まで行くと招き行燈には「かつら文楽」[#「「かつら文楽」」は2段階大きな文字]の名が、向かって左のところに描かれていた。右側には「三遊亭圓生」[#「「三遊亭圓生」」は2段階大きな文字]の名前があった。文楽は近ごろ上方からかえり、向こうの噺をふんだんに仕込んできた売れっ子のパリパリ。つまり今夜の万長亭は圓生、文楽の二枚看板なのだった。
「ア、師匠御苦労さまで」
いままで
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