てくる大汗でたちまち絵の具皿の中がダブダブになってしまった。これには困らないわけにはゆかなかった。
 ウーム、ひどい。
 何べんか拳固で額を横撫でにこすり上げては溜息を吐いた。こんな暑さじゃ寄席もお客がこなかろうし、第一、汗ッかきの阿父さんさぞ困ってるだろうなと、珍しくそうしたことをふとおもった。
「次郎、かかるぜもう」
 そのとき仕事場のほうで芳年の甲高い声が聞こえた。
「持ってきておくれな絵の具を」
 つづいて芳幾の声だった。
「へーイ」
 いま溶いていた絵の具皿の、まず胡粉のからグイと両手で差し上げて立ち上がろうとしたとき次郎吉は、急に目の中へ白い矢が突き刺さったようなものを感じた。クラクラと足がよろめいた。
 皿の胡粉が漣《さざなみ》打ってきた。
 ア、いけない。
 おどろいて足を踏みしめようとしたとたん、今度は目の前が真っ暗になり、何ともいえないきな[#「きな」に傍点]臭いようないやあな[#「いやあな」に傍点]匂いが鼻先を掠めた。ひどい吐き気を感じてきた。
 いけない、ウー、いけない。
 我れと我が身へしっかりしろしっかりしろと呼びかけたけれど、何の他足《たそく》にもならなか
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