「エイ」
 もんどり切ると青々とした水の中へ、ザブーンとその身を躍らせた。
「やっ身投げだ」
「身投げだ」
 口々に数万《すまん》の見物は愕いたが、やがて真相が知れ渡ると、
「ちがうちがうそうじゃねえんだ、落語家《はなしか》の圓朝が洒落に飛び込んで泳いでるんだ」
「エ、洒落に泳いで。フーム。生白《なまっちろ》い顔してる癖に圓朝て意気な野郎だなあ」
「意気だともよ、圓朝、圓朝しっかり泳げ」
 我も我もと花火そこのけで圓朝を声援しだした。
(いけねえこいつァ。
 余計なことをいってしまって、かえって圓朝に落《さげ》を取られた)
 ガッカリしたように顔見合わせている柳條柳橘を尻目にかけて圓朝は、ややしばらくその辺を泳ぎ廻り、もういい時分とぐしょぐしょに濡れそぼけた縮緬浴衣のまんま自分の船へ泳ぎつくと、
「おい早く、そっちの浴衣をだしてくんねえ」
 舟べりでどうなることかとハラハラしていた寂しい美しい横顔へまた鉄火に呼びかけた。
「あいあい、お前さんあのこれで」
 スーッと立ち上がっていったお糸は濡れた浴衣をぬがせるとすぐ用意してあったもうひとつの寸分違わぬ首ぬき浴衣を、まだ身体中水だらけの圓朝の背中へと、フンワリやさしくかけてやった。
「豪儀だなオイ、圓朝って。あの素晴らしい縮緬浴衣[#「縮緬浴衣」は底本では「縮濡浴衣」]、何枚持ってきてやがるだろう」
「全くだ、若えがド偉え度胸ッ骨だぜ。たのむぞ圓朝――っ」
 またしても八方の船から見物たちは、霰《あられ》のような拍手を浴びせた。
 もう柳條も柳橘もなかった。
 いや、さしもの大御所柳枝さえが、すでにすでに若い圓朝の前に完全にその色を失っていた。
 今こそ江戸八百八町の人気という人気を根こそぎ一人でひっさらって仁王立ちしている自分を、圓朝は感じた。
 ああ、この夜のこと、とわ[#「とわ」に傍点]に忘れじ、お糸よ、花火よ――いつかカラリと不機嫌の晴れて、心にこう喜ばしく叫ぶものがあった。
 ぽん、すぽん、ぽん――。
 折柄、烈しい物音がしてにわかにこの辺り空も水も船も人も圓朝もお糸も、猩々緋《しょうじょうひ》のような唐紅《からくれない》に彩られそめたとおもったら、向こう河岸で仕掛花火の眉間尺《みけんじゃく》がクルクルクルクル廻りだしていた(下略)。

 文意の前後重複のところあるだろうがひとえにそれは許して貰いたい、要は、こうして圓朝打倒の大|旆《はた》を揚げた人たちはかえって内に外にいつも空しく惨敗を喫することとはなってしまったのだった。
「人気」というひとつの大きな趨勢の前、鬼夜刃羅刹といえども、それには対抗することできなかった。非難すれば非難するだけ、礼讃すれば礼讃するだけ、どっちへどう転んでも圓朝の名はうららな朝日のいろにと染められていくばかりだった。
 その晩、何べんも嬉し泣きに泣きたいような思いになりながら圓朝は、船で小糸の家までおくられていった。三年前世話する人に死別れたままの小糸の家は圓朝の住居のもう少し河上にあって、庭から河岸へと張りだされている桟橋へは、涼しく暗い川波が寄せて返していた。ピタリとそこへ船が着いた。まだ濡れている手でしっかり小糸の手を取って圓朝は、いつか今にもひと雨きそうに曇ってきた夜空の下、鉄砲百合の花香ただよっている前庭のほうへとあがっていった。

 ……そのころから圓朝はこの小糸の家の二階で、ひとりしずかに新作噺の構想を凝らすようになった。母のおすみも小糸贔屓でよくやってくれば、萬朝をはじめ弟子たちも姐さん姐さんとよくなついて始終出入りしだした。寂しい、影そのもののような感じのおんなだったが、人一倍苦労の味を噛みしめてきているだけに弟子たちの面倒もじつによく見た。
「あの姐さんならうちの師匠と似合いの夫婦だ」
 口々に弟子たちがこういった。
 圓朝自身もまた、そのつもりだった。なればこそ半分、自分の家のようにしてそこの二階から寄席や座敷へとかよっていたのだった。
 ただその小糸にして只ひとつ、いつもしみじみと弟子たちにいうことがあった。
「うちのお師匠さん、平常《ふだん》はほんとうに申し分ないお人だけれど、私困ってしまうことがひとつだけあるの。噺をおこしらえなさる前の二、三日……そりゃほんとに妙に機嫌が悪くなっておしまいなすって、急にひとり言をおいいだしなすったり、部屋ン中をぐるぐるあちこち[#「あちこち」に傍点]お歩きンなったり、お顔といったらそりゃもうほんとに恐しくなって。御自分は女がお産をする迄の苦しみと同じなんだよっておっしゃるけれど私、あんな私、困ることッたらないわ」
 言いおえるときいつも伏せられた寂しい黒い目は、シットリ途方に暮れたよう露帯びていた。
 つまりそれほど圓朝の噺へ打ち込む魂は真剣だったのだった、いずこいかなるとこ
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