まった。うちの[#「うちの」に傍点]小勇が柳派へいってしまったらしいこともやはり自分に祟《たた》っているのだろう。でも永い月日のうちには師匠の機嫌も直るだろう、いまいたずらにここでこんなことを繰り返しているとそこは凡夫、日一日と例の心の澱というやつが大きく色濃く拡がっていってしまうばかりだった。
「当分行きさえしなかったら……そうして自分は自分の道さえ脇目も振らず励んでいたら……」
 ほんとうにそんな師匠のことなんか考えているよりも、いま圓朝の目の前には進まねばならない「道」が菫《すみれ》たんぽぽ咲きみだれて、春を長閑《のどか》とあけそめていた。ひたすらそこを進めばよかった。それからというもの、ことさらに圓朝は師匠夫婦の上を思い煩うことを止めてしまった。
 そういううちもしじゅう文楽師匠は中入り前のいいところへつかっていてくれたし、中流の寄席ではあるが一枚看板で真を打たせてくれるところも二た月にいっぺん、三月にいっぺんは、でてきた。そのたんび今度は親父の圓太郎にすけ[#「すけ」に傍点]てもらった。日常生活こそからもう[#「からもう」に傍点]意気地なくなってしまっていたが、さすがに好きでなった稼業の、高座へ上がるとどうしてまだなかなかに達者なものだった。一段と渋くなった声音が、大津絵やとっちりとん[#「とっちりとん」に傍点]や甚句に昔ながらの定連を喜ばした、しかもそうした定連たちは枯淡な圓太郎の音曲を懐しむとともに、その忰である圓朝の花やかな道具噺の、新しい贔屓ともなった。お客は増えるばかり、人気は上がるばかり。うそもかくしもないところ文楽の真打《とり》席へ働かせてもらっているとき、
「もうでてしまったかえ圓朝」
 こういって聴きにくるお客がひと晩に五人や十人は、必ずあるようになった。
 ああ、ありがたい。
 その日その日というものに、ほんとうにいま圓朝は生甲斐を感じだしていた。


     四

「三遊亭圓太」という看板が、だしぬけに二月の下席《しもせき》、浅草阿倍川の寿亭という寄席へ揚げられた。鳴物入り道具ばなしと肩へ書かれてある定式幕、縁《ふち》とりの辻びらを見て、圓朝はオヤッと目を疑った。
 いつ誰がなったのだろう、圓太に。
 圓太とは初代古今亭志ん生の前名。到底きのうきょう出来星の落語家の付けられる名前じゃなかった。いわんや、その傍らにスケ三遊亭圓生と師匠の名前の大きく書いてあるにおいておや。
 誰だろう。
 ハテ誰だろう。
 ほんとに誰がなったんだろう、一体。
 どう思い廻してみても側近に心当りのものがなかった。襲《つ》ぐには今更偉過ぎる人か、偉くなさ過ぎる人たちばかり。
 かいくれ[#「かいくれ」に傍点]圓朝には目星がつかなかった。
 それにしても自分のところへ披露のしらせひとつこないとは――。
 それだけにいよいよ当りが付かなかった。
 珍しくこの下席は浅いところで早くからだが空いてしまうので、休みで家の手伝いをしている萬朝を連れてある晩、フラリと圓朝は寿亭へとでかけていった。夜風は肌に染みるが、もうめっきり空のいろが春めきを見せて、新堀かけての寺町ではどこからともなく早い沈丁花が匂ってきていた。腰屋橋渡って向こうの暗いゴミゴミした町角に、その寄席はあった。

[#ここから2字下げ]
スケ
「三遊亭圓生
 三遊亭圓太」
[#ここで字下げ終わり]

 の看板が、紫ばんだ夜気の中にオットリと微笑んでいた。
 深く頭巾で顔を隠して圓朝たちは、中へ入った。八分がらみの入りだった。顔馴染の誰彼が、あとからあとからなつかしく高座へ上がってきた。つづいて、さらになつかしい師匠圓生が上がってきた。顔見られぬよう柱のかげへ身をよじらせて圓朝はそっとうれしく聴き入っていた。あと[#「あと」に傍点]へでる初看板圓太の提灯をしきりに持って、未熟ではあるがどうか引き立ててくれと師匠はくどくど[#「くどくど」に傍点]頼んだのち、ついてはあれが道具噺をいたしますから手前のところはあとと色の変りをますようお笑いの多いところをと、「にゅう」という与太郎のでる噺を相変らず地味な話し口ではあるが、克明に演って引き下がっていった、さすがに、相応以上に受けていた。
 ……久保本の自分の真打《しばや》のとき、毎晩同じ噺を演っては困らせたことをおもいだして圓朝は、ふっと身内《みうち》が寂しくなった。
 師匠が下り、中入りが過ぎると、にわかに浮き立つようなシャギリの囃子が聞こえてきた。この囃子を聞きながらまた圓朝は師匠に今夜の演題《だしもの》を前で演られてしまったため、何を喋ろうかどう喋ろうかととつおいつ[#「とつおいつ」に傍点]したときのことを、きのうのごとくおもいだして、いよいよしんしんと寂しくなってきていた。
 そのとき御簾《みす》が上がり、浪に兎の背
前へ 次へ
全67ページ中48ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング