タとくずおれた。そしてはまたすぐその心の底から不思議に元気よく立ち上がっていく。ああこんな真剣な繰り返しを圓朝はおよそ何回何十回としたことだろう。
 すればするほど、真打たりたい圓朝の希望は大きく逞しく拡がっていくばかりだった。
 なりたい、なりたい、なりたいと、さんざ考え抜き、悩み抜いた末、今度は、では、どうしてなれないのか。
 どうしてこの俺だけはなれないのか。なれないにはなれないだけの次第が何かそこにあるのだろう、それを考えだしてみたい。
 ふっとしまいにそういう反対の考え方をするようになってきた。
 しかもこの考え方は、意外なところで人生行路の敵の虚を突いたようなものだった。
 たちまち答案が、そこへでてきた。
 ……ありふれた噺ばかり演っているからさ。
 なるほど、芸質はすでに曙空を仰ぐような佳き紫いろと。だからこそようやく人気も立ちそめてきたが、しかししょせんは自分の演るところの噺、ひと口にありふれたものばかりである。
 いくら五十が百おぼえようとそんな噺――。
 柳枝さんも演る。
 その弟子の榮枝、柏枝も演る。
 左楽さんも演る。
 さん馬さんも演る。
 まだその他にも誰も彼も自分より十倍も二十倍も巧い人たちが、もっと達者に、もっと上手に、演っているではないか。
 いくらどう馬力を掛けてみたところで、どうまあ卯辰《うだつ》が上がるものか。
 すなわち、これがどこからかしきりと圓朝の耳許へ囁きかけてきたところの「答案」だった。
 ……そうか。
 そうだったのか。
 なるほど――なるほどその通りにちがいない。
 では――では、その幾多の名人上手たちに負けないようにしていくのには、一体、どうしたらいいのか、私は。
 ……やることさ、誰もがまだ手がけていない新しい「路」を。
 そこを切り拓いていくことさ。
 第二の「声」は、つづいてこうした第二の「答案」を囁いてきた。
「おお、そうだった」
 はじめて圓朝は、この答案としての自分の行く手に薄白い東雲《しののめ》の空のいろを感じた。
 ひとすじ夜明けの朱《あけ》を見た。
 よし。
 やろう。
 やってみる。
 必ずやるとも。
 勢い立って心に叫んだ。

 あくる日から茅町のささやかな圓朝の住居の中には、ところ狭しと唐紙のような、障子骨のような、衝立《ついたて》のような、屏風のようなものの、いずれも骨組ばかりのものがとっ散らかされはじめた、とんと経師屋《きょうじや》の店先のごとくに。
 片っ端からそれへいちいち、萬朝と二人、汗みずくになって反古《ほご》紙を貼った。
 そろそろ袷《あわせ》に着換えたいきょうこのごろ、家中がムンムとするほど炭火をおこして、その火で反古紙を貼ったものを片っ端から乾かしていった。
 乾き上がると、今度はその上へ上等の鳥の子を貼った。また、それを炭火へかざして乾かした。
 やっと出来上がったかとおもうと、物さしをあててみて寸法の間違いであることが分ったりして、また始めからやり直すこともあった。そうなるとまた反古紙を貼り直し、またそれを焙《あぶ》り、またまたその上へ鳥の子を、またまたそれを火で乾かすのだった。
 寄席へ行くまでかかりっきりで[#「かかりっきりで」に傍点]やっていると圓朝も萬朝も、汗で着物が絞るほどグショグショになってしまった。
 でも――何ともそれは愉しかった。他人には説明し難い苦労の愉しみというものがあった。
 ようやくそれらが出来上がった。
 あくる日から座敷中が、今度は国芳の家のおもいで懐しい無数の絵の具皿で充満された。
 赤や青や黄や緑や白や紫やさては金銀や――経師屋化して人形屋か大道具師の仕事場もかくやとばかりだった。
 羅《うすもの》ひとつになって圓朝は、この間内《あいだうち》から貼りかえたいろいろさまざまの障子のような小障子のようなものへ、河岸の景色を、藪畳を、廓《よしわら》を、大広間を、侘住居《わびずまい》を、野遠見《のとおみ》を、浪幕を、かつて習い覚えた絵心をたよりに、次から次へと描き上げていった。
 次から次といっても、もちろん、そう短兵急《たんぺいきゅう》にはゆかない。これもやっぱり乾きを待って(雨でもつづくと何とそのまた乾きが遅かった!)次々と塗り上げてゆくのでなければならなかった。三日で上がるのも、五日で上がるのもあった。十日かかってまだ出来上がらないものもあった。
 全部の景色がすっかり仕上がってしまったのはかれこれ、八月。もう裏のすみだ川の水のいろが、めっきり秋らしく澄みだしていた。
 あくる日から圓朝の家は三たび態《さま》を変えて、今度は花やかな三味線の音締《ねじめ》が絶えず聞かれるようになった。大太鼓、小太鼓、ドラ、つけ[#「つけ」に傍点]や拍子木の音も面白可笑しく聞こえてきた。
 三味線のほうは下座のお
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