「してやってくれ、ねえおい後生だ、してやってくれ、してやれねえとまたお前俺の前でまんざらいえた義理でもあるめえお前」
 いよいよ調子が笠にかかってきた。手酌でまた二、三杯冷たい茶碗酒を呷りつけると、いつになく据ってきた目でギロッと睨んだ。
「…………」
 接穂《つぎほ》なく腕組みして黙ってしまっていた杉大門は、永いこと何をかブツブツ口小言をいっていたが、やがてグイと顔を持ち上げると、
「オイ、真打にしよう小圓太を」
「エ、してくれるか、ありが……」
「おっとっと、だがただ[#「ただ」に傍点]はしねえ、約定がある」
 いつしかひどくドロンとした目になってきていた杉大門も、手許の湯呑の酒をグイとやって、圓生の大きな鼻の頭を睨んだ。
「ド、どんな役定だ」
「ハッキリいおう、師匠二人似たものはいらねえ、小圓太をお前さん、どうでも真打にしようてンなら、きょうこう[#「きょうこう」に傍点]限りお前はん、落語家を廃めてあいつ[#「あいつ」に傍点]に後目を譲ってやんねえ、そうすりゃ……そうすりゃあ俺……」
 フフンと肩でせせら笑[#「せせら笑」に傍点]って、
「そうすりゃ……そうすりゃ俺、小圓太師匠を真打様に」
「か、勝手にしやがれ」
 いきなり圓生はガチャンと足で猫足の膳をひっくり返した。八方へ銀作りがちらばった。

 ……間もなく圓生は小圓太に名前を変えろといいだした。小圓太という名前が子供々々していて貫禄がないため席亭が重んじないのだとこう圓生は考えたのだった。
「どうでしょう師匠、この名前」
 翌朝すぐ小圓太は小さな紙切れを持ってきて、師匠の前にひろげた。
「…………」
 取り上げてみると、圓朝とハッキリした字で書かれてあった。
「ウ、いいだろう」
 しばらくジーッと眺めていた師匠がやがて大きくひとつ肯いて、
「圓朝――圓朝はいい。爽々しくていい名前だし、ドッシリともまたしているし。ウム、よかろうお定《き》め、これに」
 ……かくてその日から小圓太は圓朝と名を改めた。
 三遊亭圓朝――。
 でも圓朝と名は変えたけれど、やっぱり二つ目以上の何物でもなかった。賞めてくれるのは師匠一人で、仲間も席亭も白い歯ひとつ見せてくれるでなかった、時にはあんなに師匠の賞めてくれてるのはあれも[#「あれも」に傍点]お世辞じゃないかと疑われたほど。
 それには二つ目という境遇、ハッキリと前座よりは苦しかった。骨が折れた。身分こそ低く、身体こそ忙しいが前座のほうが定《き》まったお給金が貰えた。つきあいもなかった。給金の貰えない者はその代り師匠の内弟子だから、必要に応じたものはみんな師匠が面倒を見てくれた。
 ところが二つ目となるとそうはいかない。
 出る席はせいぜい一軒か二軒で、それも半チクな寄席ばかり、従って収入《みいり》はない。
 しかもつきあいのほうはもう一人前とみなされているから、祝儀不祝儀、何かにつけて後から後から出銭が多い。
 三度に一度は前座に小遣いもやらなければならないし、仲間と飲みにも行かねばならない。楽屋へ這出しにくるやくざがあると、それにも某《なにがし》かの小遣いをとられた。しょせんが一軒チャチな寄席の掛持が増えた位では、毎月毎月足がでてしまった。いや全くその苦しいの何のって、愚痴はこぼしたくなる、不平は湧いてくる、しかも周囲は一人でもあいつしくじればいいと手ぐすね引いて待っている手合ばかりだから、口でばかりお上手をいっても、誰一人味方になってくれるものなんかない。従ってその時分あたら前途ある芸人で二つ目の苦労に耐えかねて江戸を売り、ついに生涯、旅烏で終ってしまうものが少なくなかった。
 そうした二つ目としての生活条件だけでもいい加減苦しいところへ、いまの圓朝は阿母《おふくろ》一人かかえて食べさせていかなければならなかった。旅へいったきりどうしてしまったろう父親の圓太郎は、いまだにたよりもよこさなければ、もちろん仕送りひとつしてくるでもなかった。圓朝の稼ぎだけではとても足りないので、母のおすみが他人様の縫針仕事をして僅かに暮らしを支えていた。もちろん切通しの家もとうに畳んで、七軒町の裏長屋へ引き移ってしまっている始末だった。
 まだその上に、ここのところ圓生を宗家とする三遊派というものが、なぜかてんで[#「てんで」に傍点]その道での人気が目に見えてなくなってきていた。
 初代圓生が山遊亭猿松と洒落た亭号を名乗った昔はいざしらず、この仲間の習いとして猿の字を忌み、「三遊亭圓生」と改めて以来《このかた》も、古今亭新生、金原亭《きんげんてい》馬生、司馬龍生、三升亭小勝と名人上手は続々とあらわれいで、ついほんのこの間まで三遊派の大いなる流れは随分滔々と派を唱えていたのに。
 どうだろう、それが近ごろ。
 いまの二代目の代になって、新生さん、馬生
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