万長亭の招き行燈が、秋の夜らしいしみじみとした灯のいろを見せて微笑んでいた。シャーイシャーイという木戸の声が、まだ原っぱを歩いているうちから丈高い草の葉越しに聞こえてきた。なかなかお客がよくくると見えて、あとからあとから下足札を打つ音が、チョン、チョン、チョチョンチョチョンと聞こえてきた。その声その音すらが次郎吉にとっては、絶えて久しいなつかしきかぎりのものだった。西黒門町の八百屋にいて寄席囃子を聴き、濡れた慈姑《くわい》を掴んだまま、夢中で後の貸席へ入っていってしまった日のことを、すべてがもう遠い昔のことになってしまったのだ、今の幸せなこの俺にとっては……とまた今更のように考えて、うれしく悲しくおもいだしていた。
 傍まで行くと招き行燈には「かつら文楽」[#「「かつら文楽」」は2段階大きな文字]の名が、向かって左のところに描かれていた。右側には「三遊亭圓生」[#「「三遊亭圓生」」は2段階大きな文字]の名前があった。文楽は近ごろ上方からかえり、向こうの噺をふんだんに仕込んできた売れっ子のパリパリ。つまり今夜の万長亭は圓生、文楽の二枚看板なのだった。
「ア、師匠御苦労さまで」
 いままでシャーイシャーイと声を涸らしていた木戸の爺さんが肉づきのいい圓生の姿をみつけると、吃驚したようにこういった。それに対して圓生はまた最前小圓太へしたように永い永い丁寧なお辞儀をした、立ち停まって、腰の下まで両手を垂らして。後からくっついてきた小圓太もついいっしょになって馬鹿丁寧なお辞儀をした。でもやっぱりここでも師匠のお辞儀のほうが少し長かった。
 けげん[#「けげん」に傍点]そうな顔をして木戸の爺さんは、薄赤い招き行燈の灯に濡れている小圓太のクリッとした顔を透かして見た。親父の圓太郎が主として下町の寄席ばかり打っていたので、小圓太、のて[#「のて」に傍点]の席にはてんで[#「てんで」に傍点]顔を知られていなかったのだった。
 後の空地のほうから楽屋へ入った。文楽師匠のお弟子さんだろう、目は両方ともちゃんと開いているのに目っかちのように見える口の大きなだらし[#「だらし」に傍点]のない顔の前座が顔中を口にして、迎えた。この前座へも腰低く挨拶して師匠は上へ上がった。
 高座のほうから木やりくずしの三味線が澄んでながれてきた。ふるいつきたいほど錆びのある美しい声で、誰かがしきりにうたっていた
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