誰だろうこの音曲師――でもそんな詮索よりも何よりも、ただもうこうやって今や永年希望のこの世界の中へきて暮らしていられる、そのことだけがひたすらに嬉しかった。ゾクゾクと小圓太は喜んでいた。
 やがて木やりのあと暢気に太鼓入りで石の巻甚句を歌い、拍手とともに音曲師は下りてきた。
 十がらみの苦味走った小龍蝶《こりゅうちょう》という男だった。明らかにうちの師匠のほうが看板が上なのに、「御苦労様」と丁寧にこちらから声をかけた。恐縮して小龍蝶は何べんも何べんも頭を下げながら、やがてかえっていった。
 そのあとは太鼓のかげの暗いところにしゃがんで待機していた坊主頭で大|菊石《あばた》のある浅草亭|馬道《ばどう》という人が上がった。達者に「大工調べ」をやりだした。少し下司《げす》なところはあったが、お客にはしきりに受けていた。馬道の話し口が下司になるたび聴いていて圓生は烈しく眉をしかめた。ちょっと舌打ちするときもあったし、何かブツブツ口小言をいうときもあった。受けるまま[#「まま」に傍点]に馬道の噺はお白洲の大岡さまお裁きまでいってしまって、「大工は棟梁仕上げを御|覧《ろう》じませ」の落《さげ》といっしょに大へんな受け方をして揚々と下りてきた。
「ア、これは。御苦労さまでござります」
 初めて正面から顔を合わせてあわてて馬道が挨拶したとき圓生は、
「恐れ入った、いい腕だね馬道さん、いまにお前さんの天下がくるね、いや全く」
 こういってポンと肩を叩いた。喜んで馬道はかえっていった。
 すぐそのあと入れ違いに圓生は高座へ上がった。はじめからしめて[#「しめて」に傍点]かかってシトシトシトシト「子別れ」の中《ちゅう》を演りはじめた。中といえば遊びつづけてかえってきた熊さんがヤケ半分に、女房子供を叩きだすまでのあのくだりだった。何といってもいまの馬道なんかとは比べるのがもったいないくらいの、品も違えば腕もちがう水際立ったいい出来映えのものだった。わけもなくお客たちはシーンと魅されてしまって十二分以上に演った圓生が「ではこの続きはまた明晩」と結んだとき、はじめて声上げて感嘆した。しばしどよめき[#「どよめき」に傍点]が鳴りも止まなかった。下りてきた師匠は赤ばんだ顔をいっそう真っ赤にし、肩で呼吸を絶っていた。
 ……なるほどうちの阿父さんの師匠だけあって、今夜の真打《とり》の文楽師匠は
前へ 次へ
全134ページ中36ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング