おもわれる応対に、いっそ小圓太はさびしいようなものをさえ感じないわけにはゆかなかった。
 でもそんな寂しさ、間もなく本望を遂げて落語家になられたというこのあまりにも大きな喜びの前に、ひとたまりもなくどこかへ消しとんでいってしまった。身体中にはち切れそうないまの喜びは「魂ぬけて」いそいそ[#「いそいそ」に傍点]というのが本音だったろう、全く誇張でなしに小圓太は圓生の住居中をフワフワフワフワ他愛なく飛んで歩いていた。
 やがて日が暮れかけてきた。
 初めて師匠の高座着を風呂敷へ包んだのを首ッ玉へ巻きつけて寄席へ行く供をすべくいっしょに門をでた。仰ぐともう空は縹《はなだ》いろに暮れようとしていた。どこからか秋刀魚焼く匂いが人恋しく流れてきていた。二年前、日暮里の南泉寺の庭で、泣く泣く仰いだときと同じ縹いろの秋の夕空その空のいろに変りはないが、あのときといまとを比べてみたら、ああ何というこの身の変りようだろう。嬉しさに、思わずブルブルと身内を慄わせながら辺りを見廻したら、ほんの僅かの間なのに辺りの金目垣は定かには見えないほどもう薄暗くなってきていた。初めておもいだして腰に吊した小提灯を外し、新しい蝋燭へ灯を点した。薄黄色い灯影を先へ行く師匠の足許のほうへ送りながら、見るともなしに提灯を見ると、勘亭流擬いの太いびら字で「三遊亭」と嬉しく大きく記されてあった。
 ああやっと弟子になれた。俺《おいら》三遊亭圓生の弟子になれた。今度こそほんとうの落語家になれたんだ。
 嬉しい、俺、嬉……。
 思わずこう[#「こう」に傍点]勢いつけて前後左右に揺《ゆすぶ》ったら、フイと提灯の灯が消えてしまった。
「オイなぜ消すんだ灯を。提灯は住吉踊《やあとこせ》の手遊《おもちゃ》じゃねえ、揺って面白えって代物じゃねえんだ」
 急に振り返って師匠が怒鳴った。昼間、永いお辞儀をしたときとは打って変って夜目にもそれと分る恐しい顔つき。思わず全身へエレキのかかるようなものを感じずにはいられなかった。
「ご、ごめんなすって」いっぺんに小圓太は慄え上がってしまった。
 ………………………………。

 師匠圓生は今月は身体に楽をさせるとて、麹町の万長亭の中入りを勤めるだけのことだった。
 四谷から麹町、ほんのひと跨ぎだった。
 見附を越し、広い大通りを少しいって左へところどころに水溜りのある草っ原を越すと、そこに
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